「地獄の掟に明日はない」は1966年に公開された日本映画。
いわゆる任侠映画だが、主人公を演じる高倉健が、原爆症に苦しむ組員という設定が、単なるハードボイルドの域を超え、人間ドラマとしての色彩を強めている。
監督は降旗康男(ふるはたやすお)で、この作品がいわゆる「高倉健・降旗康男コンビ」の第一作目というい記念すべき映画だ。
相手役の女優は、十朱幸代(とあけゆきよ)。十朱幸代は昭和を代表する女優だが、まさにこの映画でも典型的な昭和の女性を演じきっている。
降旗康男監督の手腕であろう、カメラワークを含めた演出には、余情があり、文学の香りさえ感じられる。
舞台は長崎である。繰り返すが、高倉健が原爆症に苦しんでおり、広義の原爆映画だとも言えるだろう。
戦争が終わって20年が経過しても、戦争の傷跡は消えていない。高倉健も、十朱幸代も、人生を明るく前向きには生きられないほど、深く傷ついている。
二人とも、二人なりに一生懸命に生きてるいるが、生きがい(確かな人生の目的)と言えるほどのものは持っていない。
だから、どこかで諦めながら暮らしているし、自暴自棄になりかねない危うさも持っているのだ。
そんな二人が出会ったのも、高倉健が原爆症の症状が出て車の運転をあやまり、十朱幸代をはねそうになったことからだった。
この出会いの演出はうまい。
北方謙三の古いハードボイルド小説を読んでいるようにストーリーは進む。確か、北方謙三の小説に似たような筋書きの作品があった気がする。
そして、高倉健は運命を全うするように殺され、十朱幸代は愛する女を待つ薄幸の女を徹しきる。
お決まりのパターンだが、降旗康男監督の演出が良いために、安っぽさは感じない。
高倉健の良さ、十朱幸代の良さは、充分に描けている。
もう少し原爆のことを描いてほしいと思うのだが、そうすると、任侠エンタメ作品としての興行が成り立たない、そういう配慮から、任侠社会の抗争の方を軸にすえたのだろう。
いずれにしても、ただのB級作品とし片づけられない、プラスαの魅力をもった映画ではある。