黒澤明監督の映画「白痴」を鑑賞。これまで何度か観てきているが、今回は今までとは異なる感想が私を訪れた。

 

黒澤明監督の映画「白痴」に関する過去記事はこちら

 

「白痴」はこちらで鑑賞できます

 

「白痴」は1951年に公開された日本映画。監督は黒澤明。

 

今回もドストエフスキーの世界に没入したが、今までで最も冷静に観れた。

 

2時間46分という長編映画。現在、抗がん剤の副作用もあって、長時間の緊張には無理があるので、途中休憩をはさんで最後まで鑑賞。

 

人間は完璧に純粋無垢、清廉潔白な人間はいない。だから、もともと純粋なるものを求める魂を持った人間は、「白痴」の主人公に、惹かれ、翻弄されてしまう。

 

「白痴」の主人公は、癲癇性白痴を患っている。

 

穢れなき魂への希求を、私も抱いている。もちろん、私は純粋無垢な人間ではない。

 

三船敏郎、森雅之(まさゆき)、原節子、久我良子のカルテットを中心に、物語は展開される。

 

現実社会との接点を持ち、社会と適合して生きられる素養があるのは、久我良子だけである。

 

結果、久我良子以外の人物は、すべて滅びてしまった。

 

今回強く感じたのは、三船敏郎、森雅之、原節子の三人、このうち一人でも幸せになったら、小説「白痴」は成立しないだろうことだ。

 

滅びなければ、悲劇「白痴」は成立しない。だが、しかし、である。

 

これまでの私、風花未来は、ドストエフスキーの小説「白痴」も、黒澤明監督の映画「白痴」も、ともに賞賛してきた。

 

しかし、今回は、それが違った。

 

だからといって、芸術作品である「白痴」を否定するつもりはない。

 

私は今、小説とか映画とか、そうした世界と、一線を画そうと、決別しようとしているのかもしれない。

 

現実より、芸術の方が大事だ、とは今の私は思わない。

 

かつての私は「芸術至上主義者」だったのかもしれないが、今は、明らかに違う。

 

なぜ、私は変わったのか?

 

それは、滅びたら、あかん、ということだ。

 

滅びの美学は、今の私は歓迎しない。いや、今までに一度も肯定したことがないし、これから滅びの美学からの誘惑は拒絶すると決めている。

 

私、風花未来が信じているのは「復活の美学」である。

 

一度は死に瀕した命が、灰の中から甦る姿ほど美しいものはない。

 

今回「白痴」を賞賛しないのは、私自身が芸術の中だけで生きようと思っていない、現実においても生き抜こうと決めているからであり、滅びたらお終いだと痛感しているからだ。

 

アルベール・カミュは「芸術は手段に過ぎない」と言った。

 

それも違う。

 

芸術も現実も、風花未来にとって一体なのだ。

 

天上界と地上界を往き来する天使のように、私は芸術と現実を自由に行き来したい。

 

芸術も現実も、天上界も地上界も、風花未来にとって、同じ「生きる場所」なのだ。

 

主人公が滅びなかったら「白痴」は成立しない。

 

しかし、今の私なら、ドストエフスキーが、黒澤明が、真に訴えたかったことを、主人公を滅ぼさなくても、表現できると思っている。

 

詩という芸術でも、現実のこの世でも「哀しみ、愛し、抗いながらも、滅びず、和らぎの世界を目指せる」、と風花未来は確信しているのだ。

 

哀しみ、愛し、抗いながらも、滅びず、和らぎの世界を目指せる」ことについて詳述したのが、以下のページである。

 

哀しみ、慈しみ、抗い、和する

 

というふうに、初めて私は「白痴」を否定的に鑑賞した。

 

だが、映画「白痴」は観るべきではないなどと言うつもりはない。

 

最初の30分は、本当に素晴らしいので、ぜひ観てほしい。

 

全体としては、会話で説明するシーンが多すぎて、黒澤明の悪癖が出ていて感心しなかった。

 

あら捜しをすればキリがないほどあるが、そういう細かいことを超えた、魂の叫びこそが、「白痴」の魅力である。

 

それにしても、三船敏郎と森雅之の演技は、空前絶後と言いたくなるほど、鬼気迫るものがあり、いくら絶賛してもし足りない。