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映画「死ぬまでにしたい10のこと」を見た感想

映画をDVDで鑑賞しました。そのタイトルは「死ぬまでにしたい10のこと」。原題は“My Life Without Me”

不思議な雰囲気の映画です。

この味はアメリカ映画にはないですね。やはり、カナダとスペインの合作だからでしょうか。

余命いくばくもないと告げられた女性が、どのように生きるか……、それをシリアスではなく、ちょっと物憂げに、けだるささえ覚えるような独特のタッチで、描出しています。

見始めてみると、役者が映画制作のために演じていることを忘れ、ふつうの人がスクリーン上で生活しているような錯覚させ感じました。

人生とは何かみたいな、肩に力を入れたところがなく、自分の内面に住んでいた自分に正直にただ生きてみたらこうなった、という風に自然体で描いているところが、これまでの同様の設定の映画と根本的に違うところだと言えるでしょう。

死を見つめることで、自分の正体が見えてきたり、生きる実感が強くなることはあるものです。

私自身、2度ほど死にかけた経験がありますし、母親と兄に死なれているので、死はそれほど遠い存在ではありません。

自分の死が近づいていることを知ることで、初めて自分らしく生き始めるという主人公を描いた映画の傑作が、黒澤明監督の「生きる」。

ドラマでは草なぎ剛が主演した「僕の生きる道」が、たいへん優れていると思います。

上の2作品を見た上で、再び「死ぬまでにしたい10のこと」を見ると、また違った感銘を受けるかと思います。

女性視点の映画ですが、女性の感想をたくさん聞いてみたい気がしますね。

ともあれ、毎日をより充実して過ごすために、「死を見つめること」は、たまには良いことだと思います。

「汚名を晴らす」と「雪辱を晴らす」は間違い。正しくは「汚名をそそぐ」「雪辱を果たす」。

日本語には「誤りやすい慣用語句」がたくさんあります。中でも、「雪辱を晴らす」「汚名を晴らす」というふうに「晴らす」と組み合わせて使う慣用句を間違って使ってしまうことが多いのです。

 

■雪辱を晴らす

 

「雪辱を晴らす」は間違いで、正しくは「雪辱を果たす」というべきです。

 

「晴らす」を使う場合には「屈辱を晴らす」が正しい。ちょっと、ややこしいですね。

 

「雪辱」を大辞林は以下のように説明しています。 この記事の続きを読む

「泥じあい」を「泥試合」と書くのは間違いで「泥仕合」が正しい。

泥じあいどろじあい)」を大辞林ででは、以下のように説明しています。

 

 

どろ じあい【泥仕合

 

1)〔泥にまみれて争うことから〕 互いに相手の欠点・失敗・秘密などを言い立てて非難しあう醜い争い。 「 -を演ずる」

2)歌舞伎で,舞台に泥田を作り,その中で立ち回りを演ずること。

 

 

では「泥試合」と書くのは、間違いなのでしょうか?

 

しかし、実用日本語表現辞典には「泥試合」について、以下のように説明しています。

 

泥試合

 

読み方:どろじあい

別表記:泥仕合、ドロ仕合

 

内容のひどい試合。または、相手の非難や欠点の言い合いに終始する諍いなどを意味する表現。

 

 

ということは「泥じあい」は本来は「泥仕合」と書くのだけれども、「泥試合」と書くのも慣用表現として認められているということになるのでしょうか?

 

では、一歩踏み込んで、本来の言葉の意味を探ってみましょう。

 

「泥じあい」は辞書が解説しているとおり、お互いに相手の悪事をばらしたり、揚げ足を取ったり、醜い争いをすること、またそのような争いを指す言葉です。

 

例えば、以下のように使われます。

 

「ちょっとしたことがから始まった2人の言い争いは、泥じあいの様相を呈してきた」

双方が激しくやり合う様をイメージして、ついつい「泥試合」と書いてしまいがちです。

 

しかも、日常的には「試合」という言葉はしばしば使いますが、「仕合」はほとんど使いません。

 

しかしながら、正しくは「泥仕合」なので、その本来の意味を確認してみましょう。

 

「泥じあい」の「じあい」は、何かをするという意味の「しあう」なのです。「泥じあい」の「じあい」には「競技」「スポーツ」「ゲーム」などの意味はなく、あくまで、互いの弱点を攻撃したらい、相手の秘密を暴露するというふうな醜い行為を指します。

 

つまり、決して「試合」ではありません。「泥試合」と書けば、雨の日に泥んこになりながらサッカーやラグビーをするという意味合いになってしまいます。

 

では、まさにそのような「雨中、泥まみれになってするスポーツ競技」を「泥試合」と表現してもかまわないのでしょうか?

 

私としては「泥仕合」の本来の意味を尊重するべきであり、「泥試合」を書くのは、慣用表現としても安直であり、品性に欠け、俗語としても使うべきではないと感じています。

 

最後に、まとめますね。

 

「泥じあい」は「泥仕合」と書くのが正しい。「泥試合」という言葉は、たとえ「雨の日に泥まみれになって戦うスポ―ツの試合」であったとしても使うべきではない。

 

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