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「五里夢中」は間違いで「五里霧中」が正しい。

五里霧中(ごりむちゅう)」は「方針や計画が立たないことを表す熟語」。

 

しかし、わけがわからずに無我夢中になってしまうという意味を想起するためか、ついつい「五里夢中」と書き誤ってしまう人が多いようです。

 

「霧」と書くべきところを「夢」と書いてしまうため、「五里霧中」も間違いやすい日本語のひとつに数えられています。

 

まあ、日常生活では「夢中」はよく使いますが「霧中」はほとんど使いませんからね。

 

でも、「五里霧中」を「五里夢中」と書いてしまう間違いも、言葉の意味を正確に知っておけば防げますので、この機会に覚えておいてください。

 

「五里霧中」の出典は「後漢書」の「張楷伝」です。

 

後漢中期、張楷という学者がいました。張楷は仙術に通じており、五里四方にもわたる深い霧を湧き立たせることができたといいます。

 

「張楷伝」には「斐優は三里霧を起こすことができたが、張楷は五里霧を起こすことができた」と記されているのです。

 

中国では、一里の長さは時代によってかなり差があるので、五里霧がどれくらいの深さがあったかは定かではありません。しかし、相当に深い霧であったことは容易に想像できます。

 

ともあれ、方針や計画が立たないことを、張楷の仙術による五里霧の中に迷い込んだように先が見えない、と例えて表現したのです。

 

この「霧」にまつわる話を知れば、今後は「夢」と書き間違えることはないでしょう。

私にとって「心の旅」とは「蜃気楼を追いかける旅」なのかもしれない。

夕暮れ時、ただ風に身をまかせ、遠い空を見つめていると、あの夏の日に見た蜃気楼のことを想い出す。

 

蜃気楼(しんきろう)という現象を科学的に説明することは私にできるはずもない。ただ、今の私が断言できるのは、蜃気楼は世界中で最も美しいものの一つである、そのことだけだ。

 

幻とか、夢想とかいう言葉ではとてもあらわせない、強烈な力を蜃気楼は持っている。

 

私はかつて鮮烈な蜃気楼を見たことがあり、それを今もなお追いかけていると言ったら、信じてもらえるだろうか?

 

三省堂の大辞林は「蜃気楼」を以下のように説明している。

 

下層大気の温度差などのために空気の密度に急激な差が生じて光が異常屈折をし、遠くのオアシスが砂漠の上に見えたり、船などが海上に浮き上がって見える現象。

 

ここで注目すべきは、蜃気楼となって見えるものは実際にはそこにはない、つまり、現実ではないということだ。

 

ただ、そのイメージがあまりにも鮮やかで、この世のものとは思えないほど美しいから、人を悩ませるのかもしれない。

 

いや、蜃気楼ではなくとも、現実の生活より、夢や幻の方が大事だ感じること、夢幻の中にこそ本当の自分を見出そうとすることは、ふつうにある。

 

だが、しかし、おそらく私は、実際には存在しない美しいものをイメージして、ずっとそれに憧れつづけて生きたい、そういうことを言いたいのではないのだろう。

 

遠いかなたであっても、確かに蜃気楼に似た「激しく湧き立つような狂おしく美しいもの」が見えるということは、自分の中に、まだそうした「鮮烈なるもの」が生きていることの証明であると言いたい。

 

つまり、蜃気楼は幻という「ないもの」ではなく、自分の中に確かに存在する「あるもの」なのだ。

 

夏になると、体の中で何かが湧き立ってくるのを感じる時がある。風の流れや雲のゆくえが無性に気になることがある。

 

その瞬間、遠いあの夏の午後に見た蜃気楼を、私は今もなお追い続けている思うのである。

 

私にとって「心の旅」とは、蜃気楼を追いかける旅であるといったら言い過ぎだだろか。

ドラマ「高校教師’93」は何度も見てみたい名作。

近くのレンタルショップに何気なしに入ったら「何度も見てみたい名作」というラベルが目に入り、ふと借りてしまったドラマ、それが「高校教師」。

 

93年版の古い方なんですが……これは、文句なく、面白い。

 

2003年版もあるみたいですが、両方とも未見でした。

 

ある時期、まったくテレビドラマを見なかった時期があり、意外と傑作がその時期に集中していたようで、最近、古い作品をときどき見ます。

 

で、今回の「高校教師」なんですが、11話を一気に見てしまえる強烈な魅力がありました。

 

脚本はもちろん野島伸司。主演は真田広之桜井幸子

 

野島伸司の全盛期でしょうか。押してくる力がかなり強かった。

 

単なる視聴者への挑発ではなく、きっちりバックボーンまで、繊細に描かれているので、興ざめすることもなく、最後まで楽しめました。

 

好き嫌いが別れる作品でしょうけれど、この力はハンパではありません。

 

最近のドラマは、「高校教師」と比べれば、どれも薄味といえます。

 

というか、ドラマという呼び名は同じだけれど、もう、ドラマは、一過性の消費されるものとなってしまい、名作コーナーに置かれて「何度も見てみたい」と感じさせる作品は、激減しているようです。

 

つい最近、ドラマに関する有名サイトが突然閉鎖してしまいました。

 

その理由の一つに、「見たいドラマがほとんどない」ことがあったようです。

 

良いものが少なくなっているのは、ドラマだけではないかもしれません。

 

日本でいつか「文芸復興」を唱えられることがあるのでしょうか。

 

文化が衰えることは、私たちの心が痩せてゆくことに他ならないとしたら……。