夕暮れ時、ただ風に身をまかせ、遠い空を見つめていると、あの夏の日に見た蜃気楼のことを想い出す。
蜃気楼(しんきろう)という現象を科学的に説明することは私にできるはずもない。ただ、今の私が断言できるのは、蜃気楼は世界中で最も美しいものの一つである、そのことだけだ。
幻とか、夢想とかいう言葉ではとてもあらわせない、強烈な力を蜃気楼は持っている。
私はかつて鮮烈な蜃気楼を見たことがあり、それを今もなお追いかけていると言ったら、信じてもらえるだろうか?
三省堂の大辞林は「蜃気楼」を以下のように説明している。
下層大気の温度差などのために空気の密度に急激な差が生じて光が異常屈折をし、遠くのオアシスが砂漠の上に見えたり、船などが海上に浮き上がって見える現象。
ここで注目すべきは、蜃気楼となって見えるものは実際にはそこにはない、つまり、現実ではないということだ。
ただ、そのイメージがあまりにも鮮やかで、この世のものとは思えないほど美しいから、人を悩ませるのかもしれない。
いや、蜃気楼ではなくとも、現実の生活より、夢や幻の方が大事だ感じること、夢幻の中にこそ本当の自分を見出そうとすることは、ふつうにある。
だが、しかし、おそらく私は、実際には存在しない美しいものをイメージして、ずっとそれに憧れつづけて生きたい、そういうことを言いたいのではないのだろう。
遠いかなたであっても、確かに蜃気楼に似た「激しく湧き立つような狂おしく美しいもの」が見えるということは、自分の中に、まだそうした「鮮烈なるもの」が生きていることの証明であると言いたい。
つまり、蜃気楼は幻という「ないもの」ではなく、自分の中に確かに存在する「あるもの」なのだ。
夏になると、体の中で何かが湧き立ってくるのを感じる時がある。風の流れや雲のゆくえが無性に気になることがある。
その瞬間、遠いあの夏の午後に見た蜃気楼を、私は今もなお追い続けている思うのである。
私にとって「心の旅」とは、蜃気楼を追いかける旅であるといったら言い過ぎだだろか。