淵上毛錢(ふちがみもうせん)という詩人をご存じでしょうか。
実は、私もつい最近になって知ったのです。何しろ、教科書に載っていないし、文庫本にもなっていないし、手に取る機会がありませんでした。
ネットの時代になり、ふとしたきっかけで知ることができたのです。
さっそく詩集を買おうと思ったのですが、高価であることから、断念しました。
普及版が出ていないということは、何かしら事情があるのでしょう。まあ、それはともかく、ネットをいろいろ探し回り、以下の詩に行きついた次第です。
その詩のタイトルは「無門」。
さっそく、引用してみましょう。
淵上毛錢の詩「無門」を引用
以下が、渕上毛銭の詩「無門」の全部です。
無門
風は、
きらひといふものが
ないのだらう。
道も
持つてゐないくせに、
何処へでも行き、
なんにでも触れて。
行つてしまつたあとは、
月がさしたり、
雨が降ったり、
人間が泣いたりする。
風はなにやら
ぽかんとした、
痩せつぽちの
僕なんかを、
知りもしまい。
花が散つて、
垣の外ではこどもが、あんたが家(へ)は何処さ、
肥後さ、
肥後の何処さと、
うたつてゐた。
この詩に出てくるのは、風、月、雨、花、僕、こども。
主な存在は、風と僕、そして子供の歌声。
こどもの歌声が風に近いのは私にもよくわかります。そもそも、人の歌声は、風に似ていて、風よりもよく響く。
だから、人は合唱なるものを生み出し、それによって、人の歌声が風となり、時空を超えて、嘆きや哀しみを連れてきて、やがて、微笑みと祈り気持ちをもたらすことを願ったのでしょう。
風とは魂の震えである。
そんなことを想わせてくれる、不思議な詩、それが私にとっての「無門」です。
淵上毛錢のプロフィール
淵上毛錢(ふちがみもうせん)は、1915年1月13日に生まれ、 1950年3月9日に死去した日本の詩人。
脊椎カリエスを病んで、寝たきりの生活に。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。1950年、35歳で死去。
山之口獏との交流はあったものの、中央の詩壇で知られる詩人ではなかったようです。
火野葦平は、淵上毛錢の人生をモデルとした小説「ある詩人の生涯」を書いていますが、現在では高額となった古本を購入しないかぎり、読む術もありません。
現在、淵上毛錢の詩集は「淵上毛錢詩集: 増補新装版 」が出版されている。極めて高額であるため、購入を躊躇する人は多いでしょうね。普及版の出版を待ちたいと思います。
●当ブログ「美しい言葉」で取り上げた、渕上毛銭の詩