佐藤春夫の詩「秋刀魚の歌」

佐藤春夫の「秋刀魚の歌」というをご紹介します。

 

秋刀魚の歌

 

あはれ

秋風よ
情(こころ)あらば伝えてよ

――男ありて

今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり

さんまを食ひて

思いにふける と。

 

さんま、さんま、

そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて

さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。

そのならひをあやしみなつかしみて女は

いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかひけむ。

あはれ、人に捨てられんとする人妻と

妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、

愛うすき父を持ちし女の児は

小さき箸をあやつりなやみつつ

父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

 

あはれ

秋風よ

汝(なれ)こそは見つらめ

世のつねならぬかの団欒(まどい)を。

いかに

秋風よ

いとせめて

証(あかし)せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。

 

あはれ

秋風よ

情(こころ)あらば伝えてよ、

夫を失はざりし妻と

父を失はざりし幼児とに伝えてよ

――男ありて

今日の夕餉に ひとり

さんまを食ひて、

涙をながす、と。

 

さんま、さんま、

さんま苦いか塩(しょ)っぱいか。

そが上に熱き涙をしたたらせて

さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。

あはれ

げにそは問はまほしくをかし。

 

この「秋刀魚の歌」はあまりにも有名だが、教科書に載っているのだろうか。

 

載っているとしたら、今後は掲出しない方がいいのではないか(苦笑)。

 

率直の述べさせていただくと、愛好されるにふさわしいのは、以下の最初の一連のみではないだろうか。

 

あはれ

秋風よ
情(こころ)あらば伝えてよ

――男ありて

今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり

さんまを食ひて

思いにふける と。

 

これだけならば、男の一人暮らしで、秋刀魚をおかずに晩御飯を食べるという、悲哀に満ちた類似の光景はしばしばあるから、普遍性がある。

 

おそらくは、別れた恋人か愛人か妻を想っているのだろうことは容易に想像できる。

 

何より、言葉の音律がいいので、覚えやすいし、歌いやすいので、余計に悲哀が募るわけだ。

 

しかし、それ以降は、いわば「男女のグダグダ」である。

 

およそ、純愛にはほど遠い、愛欲や性癖をおさえきれない男女のメロドラマの類に近い。

 

メロドラマの主要登場人物が、有名な文学者である、佐藤春夫と谷崎潤一郎なのだから、それなりの話題性はあるけれども、詩の内容は首を傾げざるをえない。

 

せめて、最初の一連だけにやめてほけば良かったと思うばかりである。

 

確かに、恋人に捨てられた男の悲哀を、秋刀魚に託して歌った詩はない。その意味では独創的だが、内容がメロドラマの域を超えていないのが腹立たしいのだ。

 

かなり長い詩なのだから、少しくらいは、精神性の高さを示してほしかった、と思うのは私だけだろうか。

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アポリネールの詩「ミラボー橋」堀口大学 訳

アポリネールの「ミラボー橋」という詩を、堀口大学訳でご紹介します。

ミラボー橋

 

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる

わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

手に手をつなぎ顔と顔を向け合おう

かうしていると

二人の腕の橋の下を

疲れたまなざしの無窮の時が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

流れる水のように恋もまた死んでいく

恋もまた死んでゆく

命(いのち)ばかりが長く
希望ばかりが大きい

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

日が去り、月がゆき

過ぎた時も

昔の恋も 二度とまた帰って来ない

ミラボ―橋の下をセーヌ河が流れる

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を読んだ後なので、余計にこの「ミラボー橋」にある「文学の香気がうれしい。

 

この詩のテーマも「人生の悲哀」だが、そこには精神の気高さがあるので、その悲しみのメロディーに酔いしれることもできる。

 

特に、以下のリフレインが素晴らしい。

 

日も暮れよ、鐘も鳴れ

月日は流れ、わたしは残る

 

この二行だけでも、名作と賞賛される価値があると思う。

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石垣りんの詩「くらし」

石垣りんの「くらし」というをご紹介します。

 

【動画】(詩の朗読)石垣りん「くらし」

 

くらし

 

食わずには生きてゆけない。

メシを

野菜を

肉を

空気を

光を

水を

親を

きょうだいを

師を

金もこころも

食わずには生きてこれなかった。

ふくれた腹をかかえ

口をぬぐえば

台所に散らばっている

にんじんのしっぽ

鳥の骨

父のはらわた

四十の日暮れ

私の目にはじめてあふれる獣の涙。

 

人生とは、残酷で無慈悲なものである、という側面は、詩作品にしにくい。

 

とてもドラマなどには仕立てようもない場面も、まぎれもなく人生そのものだ。

 

想えば私は、青春期には、「人生肯定」を力強く表現する作家に憧れ、さまざまな作品に接していた。

 

アルベール・カミュ、ロダン、チャップリン、ジョージ・スチーブンスなどなど……。

 

「人生肯定」とは実は、人生とは素晴らしいと誇らかに歌い上げることではない、と最近思うようになった。

 

些細で、どうしようもないことも含め、歓びも哀しみも、光も影も、すべてを、あるがままに受け入れ、倒れてしまわずに、何とか持ちこたえ続けるのが、いわゆる「人生肯定」であり、「自己肯定」なのではないか。

 

「持ちこたえる」とは、何だか消極的で勇ましくないが、持ちこたえていれば、希望は無理につかもうとしなくても、必ず視界に入ってくるものだという確信はある。

 

つまり、人生にはもともと、良いこと、楽しいことがあるのだけれど、人はともすれば、光ばかりを追い求めすぎるので、闇に足を取られてしまう。

 

最も大事なのは、明るい心持ちで、粘ることだ。

 

闇も光も人生、苦しみも歓びも人生、残酷も慈悲も、すべてが人生。

 

高級レストランの調理場には、表舞台の豪華な料理には似つかわしくなり、生ごみがあふれている。

 

おいしい料理も、調理されることもなく捨てられて食材も、残飯も、人生なのである。

 

石垣りんが私たちに突き付けたものは、人生の苦労や辛苦、人生の無慈悲さというより、究極の人生肯定だ。

 

なぜなら、石垣りんは、ごまかしたり、逃避したり、美化せず、あるがままを受け入れ、負の要素にも負けないで、持ちこたえ続け、人生を決してあきらめないから。

 

この詩「くらし」には、感傷を拒絶した、確かな「愛のかたち」がある。

 

明るい心持ちで、粘り続ける、石垣りんの前向きな達観が、その場しのぎの慰めではない、真の意味での励ましを与えてくれる。

 

石垣りんのその他の詩はこちらに

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