石垣りんの「くらし」という詩をご紹介します。
くらし
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。
人生とは、残酷で無慈悲なものである、という側面は、詩作品にしにくい。
とてもドラマなどには仕立てようもない場面も、まぎれもなく人生そのものだ。
想えば私は、青春期には、「人生肯定」を力強く表現する作家に憧れ、さまざまな作品に接していた。
アルベール・カミュ、ロダン、チャップリン、ジョージ・スチーブンスなどなど……。
「人生肯定」とは実は、人生とは素晴らしいと誇らかに歌い上げることではない、と最近思うようになった。
些細で、どうしようもないことも含め、歓びも哀しみも、光も影も、すべてを、あるがままに受け入れ、倒れてしまわずに、何とか持ちこたえ続けるのが、いわゆる「人生肯定」であり、「自己肯定」なのではないか。
「持ちこたえる」とは、何だか消極的で勇ましくないが、持ちこたえていれば、希望は無理につかもうとしなくても、必ず視界に入ってくるものだという確信はある。
つまり、人生にはもともと、良いこと、楽しいことがあるのだけれど、人はともすれば、光ばかりを追い求めすぎるので、闇に足を取られてしまう。
最も大事なのは、明るい心持ちで、粘ることだ。
闇も光も人生、苦しみも歓びも人生、残酷も慈悲も、すべてが人生。
高級レストランの調理場には、表舞台の豪華な料理には似つかわしくなり、生ごみがあふれている。
おいしい料理も、調理されることもなく捨てられて食材も、残飯も、人生なのである。
石垣りんが私たちに突き付けたものは、人生の苦労や辛苦、人生の無慈悲さというより、究極の人生肯定だ。
なぜなら、石垣りんは、ごまかしたり、逃避したり、美化せず、あるがままを受け入れ、負の要素にも負けないで、持ちこたえ続け、人生を決してあきらめないから。
この詩「くらし」には、感傷を拒絶した、確かな「愛のかたち」がある。
明るい心持ちで、粘り続ける、石垣りんの前向きな達観が、その場しのぎの慰めではない、真の意味での励ましを与えてくれる。