Warning: Undefined variable $show_stats in /home/kazahana/kazahanamirai.com/public_html/wp-content/plugins/stats/stats.php on line 1384

金子みすゞの詩「こよみと時計」

金子みすゞの「こよみと時計」というをご紹介します。

 

こよみと時計

 

こよみがあるから

こよみを忘れて

こよみをながめちゃ、

四月だというよ。

 

こよみがなくても

こよみを知ってて

りこうな花は

四月にさくよ。

 

時計があるから

時間をわすれて

時計をながめちゃ、

四時だというよ。

 

時計はなくても

時間を知ってて

りこうなとりは

四時にはなくよ。

 

集中力が鈍っている時に、さらっと読んだら、この詩は何を言いたいのか、こんがらがるかもしれません。

 

しかし、じっくり読めば、容易に金子みすゞの言いたいことは理解できるでしょう。

 

人は暦(こよみ)と時計を発明して、物理的な時間の経過を数字で把握しています。

 

しかし、「花」は暦がなくても自分が咲く時期(例えば「四月」)を知っているし、「鳥」は自分が鳴く時刻(例えば「四時」)を知っている。

 

では、人はどうか?

 

暦を見て、あるいは時計を見て、時期や時間はわかるけれども、本当に大切なことは理解していないのではないか。

 

つまり、花が自分の咲くべき時期を、鳥が自分が鳴くべき時刻を知るように、自分の感性や直観や本能で理解すべきことを、人間は暦や時計に頼ることで、見失ってしまった、知る能力も退化させてしまったことを、金子みすゞは危ぶんでいるのである。

 

花や鳥が自分の感性や直観や本能で理解している「本当に大切なこと」は、人間の人生に置き換えるならば、「本当の自分」「自分の天職」「本来の自分がやりたかったこと」。また、「退化してしまった能力」とは「道具に依存しないで、自分の直観や動物的な勘で察知する力」を指すのです。

 

つまり、人間が生み出した便利な道具である、暦や時計によって、人間にとって極めて大事なことを人間自ら失くしてしまったわけです。

 

暦や時計だけではないでしょう。便利なものは、必ず人間から何かとてつもなく大事なものを奪ってしまう。

 

「便利」「利便性」「快適」などのかわりに、人間が自分たちの宝を捨ててしまったことにできるだけ早く気づき、その具体的な対策となる行動を、できるだけ早く起こすべきではないでしょうか。

 

でなければ、人間は自分の運命を愛することもできなくなる、即ち、人間でなくなってしまうかもしれません。

 

金子みすゞのその他の詩はこちらに

カテゴリー
タグ

映画「地獄の掟に明日はない」は、高倉健・降旗康男コンビの第一作

地獄の掟に明日はない」は1966年に公開された日本映画。

 

いわゆる任侠映画だが、主人公を演じる高倉健が、原爆症に苦しむ組員という設定が、単なるハードボイルドの域を超え、人間ドラマとしての色彩を強めている。

 

監督は降旗康男(ふるはたやすお)で、この作品がいわゆる「高倉健・降旗康男コンビ」の第一作目というい記念すべき映画だ。

 

相手役の女優は、十朱幸代(とあけゆきよ)。十朱幸代は昭和を代表する女優だが、まさにこの映画でも典型的な昭和の女性を演じきっている。

 

降旗康男監督の手腕であろう、カメラワークを含めた演出には、余情があり、文学の香りさえ感じられる。

 

舞台は長崎である。繰り返すが、高倉健が原爆症に苦しんでおり、広義の原爆映画だとも言えるだろう。

 

戦争が終わって20年が経過しても、戦争の傷跡は消えていない。高倉健も、十朱幸代も、人生を明るく前向きには生きられないほど、深く傷ついている。

 

二人とも、二人なりに一生懸命に生きてるいるが、生きがい(確かな人生の目的)と言えるほどのものは持っていない。

 

だから、どこかで諦めながら暮らしているし、自暴自棄になりかねない危うさも持っているのだ。

 

そんな二人が出会ったのも、高倉健が原爆症の症状が出て車の運転をあやまり、十朱幸代をはねそうになったことからだった。

 

この出会いの演出はうまい。

 

北方謙三の古いハードボイルド小説を読んでいるようにストーリーは進む。確か、北方謙三の小説に似たような筋書きの作品があった気がする。

 

そして、高倉健は運命を全うするように殺され、十朱幸代は愛する女を待つ薄幸の女を徹しきる。

 

お決まりのパターンだが、降旗康男監督の演出が良いために、安っぽさは感じない。

 

高倉健の良さ、十朱幸代の良さは、充分に描けている。

 

もう少し原爆のことを描いてほしいと思うのだが、そうすると、任侠エンタメ作品としての興行が成り立たない、そういう配慮から、任侠社会の抗争の方を軸にすえたのだろう。

 

いずれにしても、ただのB級作品とし片づけられない、プラスαの魅力をもった映画ではある。

金子みすゞの詩「不思議」

金子みすゞの「不思議」というをご紹介します。

 

不思議(ふしぎ)

 

私は不思議でたまらない、

黒い雲からふる雨が、

銀にひかっていることが。

 

私は不思議でたまらない、

青い桑(くわ)の葉たべている、

蚕(かいこ)が白くなることが。

 

私は不思議でたまらない、

たれもいじらぬ夕顔が、

ひとりでぱらりと開くのが。

 

私は不思議でたまらない、

誰にきいても笑ってて、

あたりまえだ、ということが。

 

金子みすゞは、世界で最初に「不思議感覚」を詩にした詩人?

 

センス・オブ・ワンダーsense of wonder)」という言葉を一時期、私はしばしば使っていた。

 

知人が、私の前でこの言葉をひんぱんに喋っていたからだ。

 

「センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)」は、もともとはSF用語で「不思議な感動」「不思議な心理感覚」を指す。

 

転じて、日常生活では「不思議を感じる能力」「不思議だなあと感じることそのもの」を指して使われる場合もある。

 

「センス・オブ・ワンダー」は、レイチェル・カーソンの著作『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』に出てくる言葉としても知られている。

 

私は通常は「センス・オブ・ワンダー」のことを「不思議感覚」と言うことが多い。

 

注目すべきは「センス・オブ・ワンダー」という言葉が最初にアメリカで使われたのは、1940年代だということ。

 

金子みすゞは、1903年(明治36年)に生まれ、 1930年(昭和5年)に死去している。

 

金子みすゞが死んでから、「センス・オブ・ワンダー」という言葉は使われるようになった。ならば、金子みすゞは世界で最初に「不思議感覚」を文学作品のテーマにした詩人だとも私は言いたくなるのである。

 

「不思議感覚」こそが、生きている証明、生命力のバロメーター

 

最初に金子みすゞの「不思議」を読んだ時、素直に感動できなかった。

 

ドキッとしたからだ。最近の私は「不思議感覚」が衰えているのではないか、と感じた。

 

この世界に不思議なるものが満ち溢れているからこそ、人生は素晴らしいのだろう。

 

好奇心が旺盛だということは、いろんな夢や希望があることにつなががる。

 

「なんで~なの?」「どうして~になってるの」「なぜ~は~するの?」と、しつこく親に問いかける子供のようなみずみずしい感覚を失いたくない。

 

なぜなら「不思議感覚」こそが、生命力に直結してるからだ。

 

五木寛之という作家が「街を歩いていて、美人とすれ違った時に、振り返らなくなった男も終わりである」と言った。

 

卑俗なことのようにもとれるが、命の根源を指しているのかもしれない。

 

美なるものを求める感覚」、これが衰退してしまったら、生きる甲斐はない。

 

また「不思議感覚」がなくなったら、それはもう死んでいるのと同じではないのか。

 

金子みすゞの「不思議」に、素直に感動できなくなったら「黄信号」である。

 

今の私に救いがあるとしたら、「青信号」に戻れる気がしていること。

 

たまらなくなるほど「不思議」を感じまくりたいものだ。

 

金子みすゞのその他の詩はこちらに

カテゴリー
タグ