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映画「深呼吸の必要」の感想

深呼吸の必要」は、2004年に製作された日本映画です。監督は篠原哲雄。主な出演者は、香里奈谷原章介成宮寛貴長澤まさみ

 

舞台は沖縄のサトウキビ畑。サトウキビ畑に、期日までにサトウキビの収穫を終わらせるため、若者たちがアルバイト「キビ刈隊」として集められるという設定です。

 

この映画の存在は前から知っていましたが、映画のタイトルと設定を知れば、もう内容が透けて見えるような気がして、これまで未見だったのです。

 

ところが、実際に見てみると、最初は「ふむふむ」という感じで、さほど集中していなかったのですが、時間が進むにつれて、次第にフィルムの中に吸い寄せられてゆきました。

 

私は山梨でしたが、農作業のアルバイトを住み込みでしたことがあり、その頃を想い出したので、映画にのめり込めたのでしょうか。

 

どうやら、そういうことではないらしい。

 

役者さんたちは、今もテレビドラマに出演している人気者ぞろいです。どうしてキャストが豪華なのかというと、日本航空が沖縄キャンペーンを展開しためらしいです。

 

しかし、映画のテイストは単館系のそれを想わせ、最後まで純度を保ったまま映画は終わります。あざとい商業色に汚染されてはいませんでした。

 

予想していたのとほぼ同じストーリー展開であったにもかかわらず、予想をはるかに超えて楽しむことができました。かなり前ですが、ビデオレンタル店に必ずあった「邦画あなどりがたし」というコーナーを想い出しました。

 

「深呼吸の必要」のクオリティが邦画の基本水準というぐらいになれば、日本映画を見限る人はいなくなるのではないでしょうか。

 

それはともかく、この映画のタイトルどおり、今の私は深呼吸が必要です。「深呼吸の必要」は、長田弘という現代詩人の詩集「深呼吸の必要」からとったとか。

 

深呼吸の必要

 

この機会に、長田弘の詩集も読んでみようと思っています。

映画「清作の妻」は増村保造の最高傑作か。

増村保造監督の映画「清作の妻(せいさくのつま)」を鑑賞するのは2度目です。

 

 

「清作の妻」は、1965年6月25日に公開された日本映画。監督は増村保造。脚色は新藤兼人。主演は若尾文子田村高廣

 

 

映画「清作の妻」はこちらで鑑賞できます

 

これまで増村保造監督の最高傑作は「赤い天使」か「黒の試走車」だと勝手に思っていました。

 

しかし、今回「清作の妻」を見直してみて、この映画こそ、増村保造の真骨頂があらわれていて、彼の最高傑作と呼ぶにふさわしいと強く感じ入った次第です。

 

映画「清作の妻」、3度目の鑑賞で気づいたこと

 

気安く「命がけ」という言葉は使いたくないのですが、若尾文子の演技は、まさに「命がけ」という迫力が伝わってきました。

 

「迫真の」「鬼気迫る」「全身全霊の」など、力いっぱいの演技を讃える形容はいろいろあります。けれども、この映画における若尾文子の演技は「命がけ」という言葉しか浮かびませんでした。

 

鬼神、あるいは阿修羅と化して立つ、縄でくくられた若尾文子の姿は、とてつもなく、激しく、惨たらしく、狂おしく、常軌を逸しているけれども、なぜか美しい。

 

極限状況という泥沼に咲いた花のように、怪しく咲いているかに見えたのです。

 

あの名作「妻は告白する」のラスト以上の「美しい狂気」が、見事に描出されていました。

 

物語の設定は極めてシンプルです。しかし、若尾文子が演じる「清作の妻」の予測不能な行動により、物語は意外な展開を見せ、静かなラストへの収束してゆきます。

増村保造監督の映画「妻は告白する」を見終った後の奇妙な余韻について

増村保造監督の代表作として知られる「妻は告白する」をアマゾンビデオで見ました。今回が2度目の鑑賞です。

 

 

「妻は告白する」は1961年に公開された日本映画。監督は増村保造。主演は若尾文子川口浩

 

 

モノクロームの映像の美しさ。若尾文子の圧倒的な存在感には目を見張るものがありました。

 

しかし、ラスト数分間は、いかがなものだろうか。

 

良いとか悪いとかではなく、怖ろしく、後味が悪いのです。この奇妙に鬱積してしまう感情のやり場に困ってしまう。

 

今回鑑賞してみて、思ったのは、増村保造の「歪み」です。普遍的な人間の真実をえぐり出している、というよりも、増村保造監督自身の「歪み」が独自の映像空間を生み出していると感じました。

 

増村保造監督の映画には、芸術としての気品と大衆娯楽としての通俗性が同居しています。

 

増村監督の才能が稀有であることは間違いないのですが、その映画の作り方、あるいは作られ方が、性急かつ乱暴なところがあり、文句なしの名画と呼びたい傑作はそれほど多くはありません。

 

これは、増村が所属していた映画会社の社風や経営方針が影響していることは間違いありません。

 

黒澤明のように、作りたい映画を、存分に時間と予算をかけて撮影する余裕は、増村保造にはなかったのです。

 

増村監督以前の映画監督が描き出した女性像を、何とか打ち破りたい、もっと女性の本性を鋭くえぐり出したいという欲求が、非常に強かったことが彼の作品から、手に取るように伝わってきます。

 

その描き出し方が、女性の心理だけでなく、性にも焦点を当てているため、精神的でありながら、奇妙に鬱積したエロスが、時にはむせかえるほどに匂い立ってくるのです。

 

その匂いは媚薬であるとともに、悪臭に似た不愉快さをともなうのが、増村フィルムの特徴だと言えるでしょう。

 

美しいのに、嫌らしい。そして、凄い女。それが増村保造の好んで描いた女性像です。

 

確かに、そこには「凄まじい女の姿」が浮き彫りにされます。でも、その「凄さ」の受取方は人それぞれであり、決して万人に共感される女性像は、描き出されていません。

 

そこに、増村監督のクセ、独自の美学があると感じるのは、私だけでしょうか。