増村保造監督の代表作として知られる「妻は告白する」をアマゾンビデオで見ました。今回が2度目の鑑賞です。

 

 

「妻は告白する」は1961年に公開された日本映画。監督は増村保造。主演は若尾文子川口浩

 

 

モノクロームの映像の美しさ。若尾文子の圧倒的な存在感には目を見張るものがありました。

 

しかし、ラスト数分間は、いかがなものだろうか。

 

良いとか悪いとかではなく、怖ろしく、後味が悪いのです。この奇妙に鬱積してしまう感情のやり場に困ってしまう。

 

今回鑑賞してみて、思ったのは、増村保造の「歪み」です。普遍的な人間の真実をえぐり出している、というよりも、増村保造監督自身の「歪み」が独自の映像空間を生み出していると感じました。

 

増村保造監督の映画には、芸術としての気品と大衆娯楽としての通俗性が同居しています。

 

増村監督の才能が稀有であることは間違いないのですが、その映画の作り方、あるいは作られ方が、性急かつ乱暴なところがあり、文句なしの名画と呼びたい傑作はそれほど多くはありません。

 

これは、増村が所属していた映画会社の社風や経営方針が影響していることは間違いありません。

 

黒澤明のように、作りたい映画を、存分に時間と予算をかけて撮影する余裕は、増村保造にはなかったのです。

 

増村監督以前の映画監督が描き出した女性像を、何とか打ち破りたい、もっと女性の本性を鋭くえぐり出したいという欲求が、非常に強かったことが彼の作品から、手に取るように伝わってきます。

 

その描き出し方が、女性の心理だけでなく、性にも焦点を当てているため、精神的でありながら、奇妙に鬱積したエロスが、時にはむせかえるほどに匂い立ってくるのです。

 

その匂いは媚薬であるとともに、悪臭に似た不愉快さをともなうのが、増村フィルムの特徴だと言えるでしょう。

 

美しいのに、嫌らしい。そして、凄い女。それが増村保造の好んで描いた女性像です。

 

確かに、そこには「凄まじい女の姿」が浮き彫りにされます。でも、その「凄さ」の受取方は人それぞれであり、決して万人に共感される女性像は、描き出されていません。

 

そこに、増村監督のクセ、独自の美学があると感じるのは、私だけでしょうか。