三好達治の「乳母車」という詩をご紹介します。

 

学生時代に傾倒したにもかかわらず、その後ほとんど読まなくなってしまった詩人がいます。三好達治(1900年~ 1964年)です。

 

ご存じでしょうか? 最近の教科書には、三好達治の詩は載っていないかもしれませんね。載らなくなっているとしたら、少し寂しい気もします。

 

今回、怖ろしく久しぶりに三好達治の詩集を本棚の隅から引っ張り出してみたのですが、これがなかなか良いのですね。

 

三好達治の代表作、というか、多くの人に知られている詩の一つに「乳母車」があります。

 

文学史の遺る珠玉の4行を「永遠の四行詩」と呼びたい。

 

全文を引用しようと思ったのですが、以下の4行だけを読んだ方が、より純粋で広がりのある世界を想像できると感じたので、4行だけを引用することに。

 

引用元は、三好達治「三好達治詩集(新潮文庫)」

 

以下、三好達治の「乳母車」からの抜粋です。

 

 

淡くかなしきもののふるなり

紫陽花いろのもののふるなり

はてしなき並樹のかげを

そうそうと風のふくなり

 

 

いかがでしょうか?

 

このイメージの広がり、胸中を清冽な風が吹きぬけてゆくのを感じる。

 

三好達治ほど、抒情詩という言葉が似合う詩人はいませんね。その抒情詩人である三好達治の詩世界を、これほどまでに、象徴的に美しく表現している言葉の連なりは、上の4行をおいては他にはありません。

 

いえ、日本の近代・現代詩の中で最も美しい4行であると、私は評価しているので、「乳母車」の一部分としてではなく、独立した「四行詩」として味わいたいのです。

 

「乳母車」は三好達治の処女詩集「測量船」の2番目に出てくることに注目

 

しかし、やはり、全文を読みたい、という方もおられるでしょうから、以下、「乳母車」の全文を引用いたします。

 

 

乳母車

 

母よ――

淡くかなしきもののふるなり

紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり

はてしなき並樹のかげを

そうそうと風のふくなり

 

時はたそがれ

母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ

泣きぬれる夕陽にむかって

轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ

 

赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を

つめたき額にかむらせよ

旅いそぐ鳥の列にも

季節は空を渡るなり

 

淡くかなしきもののふる

紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知っている

この道は遠く遠くはてしない道

 

このように書かれてしまうと……これはただの凡作か、大傑作になり得る可能性を秘めたいるか、どちらかのような気がします。

 

4つの連がありますが、それぞれの関係性がよくわかりません。特に3連目。転調にあたると考えても、違和感を覚えてしまいます。

 

4つの連を独立させて読んだ方が、良いとさえ思うくらい、全体の作品としては未消化なものを感じるのは私だけでしょうか。

 

「乳母車」は『測量船』という詩集に収められています。三好達治が30歳の時に出版した処女詩集(初めて出した詩集)です。

 

「乳母車」は『測量船』の2番目に掲載されており、自分の理想を高らかに掲げる、若き日の「気負いが「乳母車」にはあるようにも感じます。

 

「乳母車」の正体は、意味の解釈の中には見つからない。

 

三好達治自身の解説を読みたいくらいですが、詩作品だけを読んで感動しえないとすれば、詩として成功していないとも思うわけで……。

 

実はこの詩「乳母車」には様々な解釈がすでに出ておりまして、それらをあえてここでは紹介しません。

 

三好達治の「雪」という詩をレビューした時にも書いたのですが、三好達治は意図的に、意味を限定していないのです。

 

それなのに、読者の方が、数学の解答のように一つの結論を導き出し、一つの解釈が正しいと、すべての読者に一律共有しようとしては、三好達治が嘆くでしょう。

 

三好達治の詩「雪」

 

詩の感想は、読者一人ひとりが違っていていい。いえ、違っていた方がいいのです。

 

自分が感じたことがすべてです。感じられなくて、無理に頭で理解しようとすること正しくありません。

 

詩人が書き方を誤り、それが自分では意図しない「思わせぶり」になることもあります。読者も誤読し、解釈が分かれ、泥沼化する(非生産的な論争になる)ことだけは避けるべきでしょう。

 

ですから、私の場合は、意味を限定する方向では深読みすることは避けているのです。

 

詩の鑑賞は、自分探しであり、自分の創造でもある。

 

自分が感じるがままにまかせていると、ふとした時に、詩作品が、自らの正体を明かしてくれることがあります。

 

詩の鑑賞はそれで良いと思いますし、それしかないと私は信じています。

 

なぜなら、詩作品の正体とは、実は読者である私の正体にほかなりません。詩の鑑賞とは、自分探しであり、自分自身の創作なのです。

 

詩を読むとは、自分の自画像を、あるいは自分の全身像を描き出すことでもあります。

 

詩は書かれた瞬間から、作者である詩人から離れて独り歩きします。詩作品はそれを生み出した作者からも自由な存在なのですから、読者も自由に感じ取って良いのです。

 

以上の理由から、最初に述べたとおり、「乳母車」という詩全体を(ある程度は)高く評価した上で、以下の4行だけを独立させて、私個人は、今後も味わってまいります。これはあくまで風花未来、個人の考えです。

 

 

淡くかなしきもののふるなり

紫陽花いろのもののふるなり

はてしなき並樹のかげを

そうそうと風のふくなり

 

それにしても、この4行は美しいですね。この調べは三好達治にしか奏でられませんね。

 

また、ただ美しいだけでなく、三好達治が「淡くかなしきもの」「紫陽花いろのもの」に、この命を捧げようという「魂の誓い」が感じ取れます。

 

私の中でこの4行は「永遠の四行詩」なのです。

 

この「乳母車」は「はかなくも美しい詩10選」の4位にランクイン。

 

はかなくも美しい詩10選

 

三好達治の詩「大阿蘇」は「詩を文学的に評価するランキング」で5位にランクイン。

 

詩を文学的に評価するランキング

 

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