今回は三好達治の「雪」という詩をご紹介します。
さっそく、引用してみましょう。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
三好達治の「雪」に関する解説は読む必要ありません。
教科書に載ったことがあるため、三好達治の数多い詩の中でも、最も広く知られる作品となっています。
説明的の記述がほとんどないため、様々な解釈がされてきました。
作家の井伏鱒二と三好達治の「雪」という詩をめぐるやりとりは、確かに興味をそそります。
いつか三好君は(私が陸軍徴用でマレーに行くとき)この薬を一粒か二粒、水筒に入れると水の消毒になると云って、クレオソート丸の大瓶を餞別にくれた。その時の話だが、三好君の「雪」の詩の「太郎」は四歳ぐらいだと思っていいかと私が訊くと、「うん、それでもいいよ」と云った。「すると次郎は、二歳ぐらいか」と訊くと、「君はそんな余計なことを訊いて、次郎はあのとき寝小便していたかと訊きたいんだろう」と云った。それにしても「太郎」は四歳ぐらい、「次郎」は二歳ぐらいがいい。私は今でもそう思っている。夜の青い鳥も眠っているような感じがする。(『風貌・姿勢』ー井伏鱒二)
「雪」の作者である三好達治は、何を井伏鱒二に伝えたかったのかのか?
「自分の好きなように読み、好きなように味わっていほしい」、このことに尽きるでしょう。
この「雪」という詩は、二行しかありません。それだけに、無限の憶測が可能となります。
その憶測を楽しめばいいだけのこと。
しかし、「自分の好きなように読み、好きなように味わっていほしい」と言われると、余計に悩んでしまう人もおられるかもしれません。
「選は創作なり」と高浜虚子は言っています。
俳句の文化は、句会に集まった人たちが、句を評価しあうことで育て上げられてきた側面があるのです。
どの句を選び、どのように解釈するか、それは、厳しい自分への問いかけにほかなりません。つまり、自分自身の力量が隠しようもなくあらわれてしまう。
かといって、三好達治の詩「雪」を鑑賞する時に、身構える必要はありません。
自由自在に味わい、正解を求めないことが肝心です。
そもそも文学に答えなどありません。一つだけの正解が用意されている詩など、つまらないとしか言いようがない。
以上の意味から、「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」という詩に関する解説文の類は読む必要なし。
ご自分で感じるがままに、想うがままに、想像の翼を存分に広げてみてください。
三好達治の詩「雪」に関する風花未来の感想文
以下、参考にしていただきたいのではなく、私としても、現段階で三好達治の詩「雪」を、このように読んだという記録を残しておきたくて、以下、私なりの感想文を書いてみることにする。
鑑賞のために、もう一度、引用を。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
まずは、視覚的にバランスのとれた詩であること。二行の長さが全く同じで、「せ」と「む」の繰り返しで、音韻的な効果もあげている。
まあ、そういうことは、最優先事項ではない。
私は「雪」には、2つのテーマがある。
それは「命」と「時」。
「命」について
「生きる」とは「無数の眠り」を繰り返すことでもる。
「生きる」というと、何か活発な行動をすることをイメージするが、その一方で「眠る」ことも、やはり「生きる」大事な要素なのである。
特に子供の「眠り」は純粋で深い。
昼間、夢中になって(無心で)生きているからこそ、昼間の活動と同じ純度でもって眠る、それが子供だと言えなくもない。
「生きる純度」においては、厳しい環境、例えば雪国に暮らすほうが、純度が高くなる。
その意味から、三好達治の詩「雪」は、子供と言う「生きること」即ち「眠ること」の天才をうたうことで、「命」そのものを表現しようとしたのだろうと私は考える。
「時」について
子供は何度となく「眠り」を繰り返す。計り知れないほどの量の雪が子供の上に、季節が巡ることが降り積もってゆく……そうして子供たちは育ってゆく。
この静かな無音の「時」の流れよりも美しいものが、この世にあるだろうか。
しんしんと降る雪が、世界を沈黙させつつ浄化してゆくように、音もなく流れる「時」を感じること以外に、この世を美しいと感じる術はあるのか、美しい世界とつながれる方法はあるのだろうか、と三好達治は、無音の言葉を胸の奥で囁いている気がするのである。
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