久しぶりに風花未来の日記です。
日常生活は地味です。テレビドラマのように5分おきに事件が起きる、なんてことはありません。毎日の暮らしでは心が華やぐことは滅多にあるものではなく、小さなことの積み重ねの連続で、その地道な作業が、ほんの一瞬の歓びをかなえるのです。その束の間の歓びも、何年に一度、来るかこないか……それが、現実ではないでしょうか。
では、日々の生活は辛いかというと、心の持ち方で、かなり違ってきます。
同じ地味な日常を送るにしても、常に、未来への希望であるとか、大きな夢を持っているのと、そうではないのとでは、日々の快適度はまるで違うのですね。
ですから、ありふれたことですが「夢」や「希望」は持っていた方が良いのであって、というか、持っていないと、とても長くて平板な日常生活に耐えられるものではない、そう思えて仕方がないのです。
夢とか、希望とかいう言葉が、あまりに月並みであるならば、それを「抱きしめたいもの」という言葉に置き換えてみてはいかがでしょうか。「抱きしめたいこと」「抱きしめないひと」でも、もちろん、かまいません。
そういえば「抱きしめたい」という名曲もありましたね。
「抱きしめたいもの」は、写真で撮影できるような現実のものでなくても良いでしょう。手でつかむこともできない、夢や幻でも、さしつかえないと思うのです。
そうした、「極めて愛しいもの」を心の中に持っていれば、いろんな苦境も乗り越えやすいと思います。
ただ大事なのは、抱きしめたいほど一心に愛していることです。
私にも「抱きしめたいもの」はあります。そうした激しく愛している人なり、愛しきことがありさえすれば、強い願望が完全には満たされなくても、前に進んでゆく原動力になることは間違いありません。
「抱きしめたいもの」こそが、心の糧。「抱きしめたいひと」が、雨の日も風の日も、励ましてくれ、重くなりがちな足取りを軽くしてくれることでしょう。
その「抱きしめたいひと」「抱きしめたいこと」「抱きしめたいもの」を、自分なりの方法で描き切ることが、ライフワークにつながってゆく気がしてならないのです。言葉による表現だけでなく、あらゆる営みに当てはまるでしょう。
「抱きしめたい」、そう誰にはばかることなく、叫びたい気持ちが、本当に大事だと感じています。