映画「十三人の刺客」を再度、見直してみた。1963年に公開された、片岡千恵蔵が主演のバージョンである。
監督は、工藤栄一。
最初に鑑賞した時には見逃してしまった、この映画独特の味わいを味わうことができた。
老練な役者たちの演技は、見ごたえ充分
ウィキペディアに記載されている出演者は以下のとおり。
片岡千恵蔵
里見浩太郎
内田良平
山城新伍
菅貫太郎
嵐寛寿郎丹波哲郎
月形龍之介
西村晃
注目すべき役者を赤字で示してみた。片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、西村晃である。
「十三人の刺客」に出演した時、片岡千恵蔵と嵐寛寿郎はすでにかなりの年齢に達いていた。
「集団抗争時代劇」と呼ばれる、大スケールのアクションに、二人はどうみてもふさわしくない。
しかし、この二人の老連な役者の演技が、実に味わい深いのである。
この味わいは、黒澤明の時代劇にはないのだ。
もちろん、この映画のどこを重点的に鑑賞したいかによるが、私としては、アクションも見たいが、心理描写に興味津々である。
片岡千恵蔵の少し「とぼけた味」は、殺伐とした物語設定を緩和させ、人間の温かみを伝えている。
月形龍之介は、凛とした武士を渋く、かつ鮮明に演じていて、見事だった。私の父親が好きだった役者である。
そして、西村晃。主役を張る役者ではないが、その演技力は凄みさえ感じる。
古い価値観を打ち破る、普遍的なヒューマンパワーの発露がない
しかしながら、この「十三人の刺客」が今一つ名作として評価されないのには、明確な理由がある。
それは、登場人物たちの行動の動機である。
「武士の一分」が立たない、とラスト近くで片岡千恵蔵が言うセリフが象徴的だ。
黒澤明の映画には、古い価値観を打ち破る、普遍的な人間愛が脈打っている。その意味では、黒澤の時代劇は現代劇なのだ。
しかし、この「十三人の刺客」は、多くの登場人物が古い価値観の中で生き、そして死んで行った。
そして、ラストシーンの微妙さがマイナスになっているかもしれない。
狂気した一人の侍が映し出されるのだが、映画全体を象徴するほどの意味がない。演出の意図は簡単にわかるが、必然というより、むしろ唐突な感じがしてしまった。
意味のない戦いのために、気がふれる、それは理解できるが、そこに至る心理描写の伏線がないのである。
そして、殺される 明石藩主(松平左兵衛督斉韶 )の描き方が、これでは単なる「バカ殿」であって、あまりにも一面的である。
この人物の描出の薄っぺらさが、この映画から深さを奪っている気さえした。