10月は、本当に「ゆらぎの季節」かもしれませんね。

運営していた塾が閉講になったので、10月からは、ふだんは閉じていた感覚を開いてやろうと、今までの生活パターンを崩しているのです。

この数日間、痛感しているのは、感覚を閉じきってしまうのは息苦しいけれど、感覚を究極まで研ぎ澄まし、その感覚に真っ正直に生きようすると、それはそれで大変だということ。

かなり前の話になりますが、24歳の女性と出逢った時のことです。

その女性と出逢ったのは、私が27歳の時。話していて、単なる話が合うとかではなく、異様なまでに感性が共振してしまい、困惑する間もなく、恋に落ちてしまいました。若かった私は、その不可思議な感じを「愛」という言葉でしか、理解できなかったのです。

出逢って、数ヵ月で破たんしてしまったのですが、あの人を感じて過ごした日々は、今想うと、剃刀の上を歩いているようでした。

全身全霊で、その人を愛していた私は、もちろん、その辛い日々を不幸だとは感じません。至福と不安、いえ、至福と破滅の両極を行ったり来たりしているような時の中で呼吸していた日々。

あの頃に戻りたいかといえば、答えは、ノーです。

そもそも、人は剃刀の上を歩けるものでしょうか。

実は、歩けるのですね。限界まで、緊張し、集中すれば、人は剃刀の上でも、生きられるのです。

しかし、ほんの一瞬でも気をゆるめてしまえば、鮮血に染まってしまう。だから、破滅を覚悟しなければ、あるいは盲目の愛の渦中にいなければ、危険な蜜を人は吸おうとはしない。

ぎりぎりの愛を生きる……そのための無謀さを私はいつしか失ってしまったようです。ただ、剃刀の上を歩く、あの魔的な快感と恐怖を体験はしました。だから、ひとつの憧憬として、鋭利な刃物の冷たさを感じることはできます。

私よりも数倍も感性の鋭い女性と過ごした短い時間。その緊密な時の流れは、輝く10月の青空のかたなから、ひんやりとした風ともによみがえってきました。

薄皮一枚の緊張の中にしか宿りえない、神々しい光のことを、人は、詩とか、美とかいう言葉で、表現して、かろうじて、安寧を得ようとしているのもしれませんね。