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映画「女が階段を上る時」は、人間の弱さが丹念に描かれた心理劇の佳作。

成瀬巳喜男監督の映画は大好きというほどではありませんが、けっこうな数の作品を見てきました。

 

当ブログ「美しい言葉」では、以前「山の音」をレビューしました。

 

成瀬映画の中で、文句なく面白いのが、今日ご紹介する「女が階段を上る時」です。

 

「女が階段を上がる時」は1960年に公開された日本映画。

 

監督 成瀬巳喜男
脚本 菊島隆三
製作 菊島隆三
出演者

高峰秀子
森雅之
仲代達矢
音楽 黛敏郎

 

映画「女が階段を上がる時」はこちらで視聴可能です

 

銀座のバーの物語の舞台。そこで商売に徹することができずに、極めて人間的であり、弱さをあわせ持つ一人の女性の心理が精細に描かれていいます。

 

私はもともと心理劇が好きであり、成瀬巳喜男は、女性の心理を描かせたら屈指の名匠なので、この映画監督と私の相性は良いのは間違いありません。

 

ただ、その描き方は、文芸作品としての格調を前面に出すことはありません。ぎりぎりまで目線を下げて、メロドラマ的なテイストになることを怖れないのが成瀬巳喜男フィリムの特徴と言えるでしょう。

 

芸術の香りにこだわるよりも、人間っぽさ、人の誇らしさよりも弱さを、とことんまで描き切ることに主眼がおかれているので、作品によっては、まさにこれはメロドラマではないのかと感じてしまうこともあります。

 

ただ、そのスレスレな感じが、成瀬巳喜男の特徴だと意識して見ると、細かい作品の難点なのどは気にならなくなるのではないでしょうか。

 

映画監督としての手腕は、確かです。決して女性しか描けない力量の劣る監督ではありません。

 

男性を描かせたら定評のある黒澤明も「映画のエキスパート」「その腕前の確かな事は、比類がない」と成瀬巳喜男を高く評価しています。

 

黒澤明のスクリプターとして多くの黒澤作品に参加している野上照代は「黒澤さんが一番尊敬してたのは間違いなく成瀬さん」と証言しているのです。

 

ともあれ、銀座のホステスを描いて、これほどストイックな味わいが得られる映画は、他にはありません。名画ファン、成瀬巳喜男ファンならずとも、一度は見ておきたい映画だと言えます。

ウィリアム・ワイラー監督の映画「コレクター」を久しぶりに見た感想

映画「コレクター」を超久しぶりに、鑑賞しました。

 

アマゾンビデオで気軽に古い映画を見られるようになったからでしょう。正直、ビデオレンタル店にまで行って、この古い映画「コレクター」見る気力はありません。

 

映画「コレクター」はこちらでお聴きいただけます。

 

「コレクター」(The Collector)は、1965年に制作されたイギリスとアメリカの合作映画。原作は、ジョン・ファウルズの同名小説「コレクター」。

 

監督は「ローマの休日」のウィリアム・ワイラー。主演は、テレンス・スタンプサマンサ・エッガー

 

それほど期待していたわけではなく、というか、むしろ失望するのが怖かったのです。

 

子供の頃に見た映画で最も衝撃を受けたのが、ヒッチコックの「鳥」、イングマール・ベルイマンの「沈黙」、そして、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」だったから。

 

子供の時に衝撃を受けた映画を、大人になってから見直すのには、ある種の勇気がいります。幻滅したくないからです。

 

しかし、今回見た「コレクター」は、再鑑賞して良かったと正直感じました。

 

まず、第一に、子供の時は、衝撃は受けたけれども、意味がよくわからなかったのです。

 

今回、映画「コレクター」を見て、作者の意図が手に取るように理解できました。

 

この映画はアーティスティックな大人の娯楽作品です。主人公をそれほど異常だと感じなかったのは、私が大人になったせいでしょうか。

 

映画としての質は高い。第一級のエンターテインメント映画だと言って間違いありません。

 

密室心理劇、2人芝居の面白さを、ここまで描き切った映画が、他にあるでしょうか。

 

監督の美意識の高さ、アートワークの冴えには、目を見張るものがありました。

 

だが、超一流の作品かというと、それには何かが足りません。その足りない何かについては、機会を改めて語りたいと思います。

シートン動物記1「ロボ」「ぎざ耳」を読んだ感想。

シートン動物記」は映画「ハチ公物語」を見て感動したために、読み始めました。

 

「シートン動物記」は私が読んだ最初の物語だと言っていいかもしれません。

 

私は作文が大の苦手でした。小学生の頃、作文を最後まで書き上げたことがありません。

 

最初の数行でつまづき、その先を書くことができないのでした。

 

ところが、中学一年生の時に私が書いた読書感想文が、賞に入ってしまったのです。

 

作文が苦手だった私が完成させた初めての読書感想文が、賞状をもらうことに。

 

実は、その時に選んだ本が「シートン動物記」でした。

 

難しい本は苦手だった私も、動物記は好きだったのです。テレビの「野生の王国」のような番組はかじりついて見ていたくらいでしたから。

 

うまい感想文を書いてやろう、優等生的なことを書かなければいけない、という気持ちはありませんでした。

 

ただ、自分がワクワクしながら読んだ感じを、素直に書いただけだったのです。

 

そんなわけで「シートン動物記」は、忘れられない思い出の書だと言えます。

 

ところで、長い歳月を経て、今回再読してみて感じたことを、以下、記すことにします。

 

阿部知二の翻訳文の読みやすさ

 

最初に感じたのは、翻訳文の読みやすさです。

 

私が今回読んだのは、講談社の青い鳥文庫に入っている「シートン動物記1」。

 

著者は、アーネスト・トンプソン・シートン。訳者は、阿部知二。挿絵は、清水勝。

 

シートン動物記(1) おおかみ王ロボ (講談社青い鳥文庫) [ アーネスト・トムソン・シートン ]

 

阿部知二の文章に好感を持ちました。センスが良いし、文学的にも優れていると感じました。

 

読み物としての面白さ

 

シートンは話を面白く語ることの名手ですね。とにかく、彼の書く文章は面白い。

 

シートンの全著作は、事実を元に書かれていますが、フィクションの要素も入っており、ノンフィクションとフィクションの境界線を引くのが難しい作家だそうです。

 

正直、動物記が事実と大きく離れていたら、面白味は大幅に減ってしまうでしょう。

 

子供の頃、本を読んだ時に「この話は本当にあったことなの? 事実なの?」という疑問を素直に抱き、その問いを周辺の人に投げかけることが一般的です。

 

残念ながら、私はもう子供ではありません。大人になって読み返してみて、この話(シートン動物記)が事実であろうが、虚構であろうが、そういうことはあまり意味がないと感じました。

 

ある時はあたかも動物になりきったかのような視点で、この世界を、人間を見ることができる。また、それを実に生き生きと、興味深く提示してくれる、シートンという天才がいた……それを実感できるだけで幸せです。

 

今回の私は「シートン動物記」を、文学作品として読みました。

 

動物文学というジャンルの貴重さ

 

高安犬物語」などの傑作を書いた戸川幸夫という小説家を私は尊敬しています。

 

⇒戸川幸夫の小説についてはこちらをご覧ください

 

もちろん、シートンとはタイプが違いますが、動物を描くことで、人間を、生命を、手ごたえ充分に描き出すという意味では、シートン文学も戸川幸夫文学も、同じ「動物文学」に類するとは言えるでしょう。

 

今回「シートン動物記」を読み返してみて、この動物文学というジャンルの尊さを改めて知りました。

 

世界にどれくらいの動物文学があるのかはわかりません。ただ、今後は少しずつでも、それらを読み、このブログ「美しい言葉」で紹介してゆけたらと思います。

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