近所にあるTSUTAYAで、成瀬巳喜男監督の「山の音」を借りてきました。

 

ただ今、観終わったのですが「これは日本映画の隠れ名作だ」という言葉がふと浮かんできたのでした。

 

もちろん、成瀬巳喜男の作品は他にも観ていますが、展開がスローで、なかなか、のめり込めないという記憶が強いのです。

 

しかし、「山の音」は「この映画はぜひ観ておくべきかもしれないよ」と、語尾を少し弱めながらでも、人に薦めたくなったのでした。特にラスト20分は秀逸です。このラストがなかったら、普通の映画かもしれない。

 

原作は川端康成の同名の小説。成瀬巳喜男の傑作と呼ばれる「浮雲」とは異質な世界観が描かれています。テンポの悪さは同じですが「山の音」の方が、映像が美しく、はるかに新鮮な印象を受けました。

 

これは父と娘の物語。でも、血はつながっていません。山村聰の息子の嫁が原節子。この2人が主人公と言って良いでしょう。

 

ですから、小津安二郎の「晩春」などで描かれた、しみじみとした父と娘の関係とは、まるで違うのです。「山の音」で描かれる父と娘の関係を、どんな言葉で表したら良いのでしょうか……。

 

不幸な物語であるにもかかわらず、その映像世界は、異様に澄み切っている。神聖な静けささえ感じさせる、不思議な空気感こそ、この作品の存在価値かもしれない。

黒澤明や小津安二郎の映画によく出てくる原節子の現実離れした存在感。実際にはこういう女性はこの世には絶対にいないだろうけれど、映画の中に登場してくると、神々しいばかりの光を帯びてしまう。この現象は、他の監督作品と同様でした。

 

問題は原節子の義理の父親を演じた山村聰です。これはもう、日本映画史上に残る名演技としか言いようがありません。

 

これをハマり役というのか、原節子との距離感をここまで滋味深く演じ切られると、絶句するしかないわけです。

 

だが、もしかすると、山村聰さんはご自身の標準的な演技をされているだけなのかもしれません。それが神レベルの演技に見えてくるところが、この「山の音」という映画の奥深さだとも思えてくるのです。

 

二十代の頃から、映画好きの友人が多かったのですが「山の音」は傑作だから観たほうがいいよ、と言ってくれた人は一人もいませんでした。

 

だから、あえて、こう申し上げたいのです。

 

「山の音」は作風として余りにも渋いけれども、特別な輝きを持つ傑作だから、ぜひ見て欲しい。この映画の異様なまでの清澄な空気感を味わうだけで、映画の「もう一つの素晴らしさ」を発見できるから。

 

この作品の映像は、現実とはかけ離れた光に満ちているかといいますと、それは、この映画のもう一つのテーマは「」だからでしょう。

 

この映画に描かれている日常は普通の日常ではない。死の世界から見た日常生活である。そのために、陽の光もただならぬ輝きを帯びてくる。

 

朝の光あふれるシーンが、この作品には繰り返し出てきますが、朝の澄んだ空気というような生やさしいものではありません。朝の光は天上から降ってくるかのような聖い輝きを発しているのです。

 

しかし、こういう映画が、ひりひりと沁みてくるとは、無意識のうちに「死」というものを、身近に引き寄せているのかもしれません。その意味でも、「山の音」は、怖い映画でした。