ドストエフスキー「白痴」の感想

この本を最後まで読み切ったら、ひょっとすると自分の人生が変わってしまうかもしれない、という期待感が持てる本は、そうそうあるものではありません。

 

実はそうした期待を抱ける稀有な小説を取り上げることにしました。それはドストエフスキーの「白痴」です。

 

テキストはいろいろあるのですが、文字が大きくなっているし、読みやすさ重視ということで、新潮文庫版にしました。

 

最初にお伝えしたいのは、ドストエフスキーの「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」などは、世界文学の最高峰なのですが、決して、読みにくくはないのです。

 

なぜ読みにくくないかというと、人物設定や物語展開は、昔の昼メロとか、最近では韓国ドラマにありがちなパターンが採用されていて、実にわかりやすい(笑)。

 

必ずと言っていいほど、男女が三角関係になったり、そこにお金がからんだり、親子や兄弟関係が濃密に描かれます。

 

このあたりはさすがにロシア文学だと思うのですが、都会的に洗練されてはいなくて、ベタというか、あからさまな人物配置や物語設定が見て取れるのですね。

 

もちろん、ただのベタな痴話げんかを描いているのではなく、そこに人間が抱きうる最大限の苦悩や愛憎が描出されていることは言うまでもありません。

 

わかりやすいエンターテイメントとしても楽しめるし、同時に極限まで深い精神世界をのぞき込めるというスリルも味わえます。

 

最後まで読んでみて、ストーリーだけを取り出してみると、これがなぜ世界最高の文学なの?と思ってしまうくらい、明明白白。

 

ドストエフスキーの小説が昼メロ的だということは、実際に日本の昼メロの原作として何度か採用されていることでも証明済み。

 

かなり前ですが墨田ユキの主演で「愛の祭」(1992年放送)という昼メロがあったんですが、その原作は「カラマーゾフの兄弟」でした。部分的ですがセリフとかほぼ小説と同じだったので、笑えたくらいです。

 

まあ、そんなわけで、ドストエフスキーを初めて読む人は、ちょっと深いメロドラマだと思って本を開いていただいても、まったく問題ないかと思います。

 

「白痴」のテーマは「世界で一番美しい人間を描くこと」だとドスト氏は言っていますが、このあたりも、難しく考えない方が、素直に主人公を理解できるのではないでしょうか。

ドストエフスキーの「罪と罰」ではなく「白痴」を読む理由。

ドストエフスキーの「白痴」をじっくり時間をかけて、読み切ってゆこうと思います。

 

ただ、文庫本で1500ページ近くある長編ですから、そんなに完読は簡単ではありません。

 

1日に50ページ読んでも、1ヶ月もかかるのです(ここでいう「完読」は「完全理解」という意味ではありません)。

 

でも、逆に考えると、これほど「深くて純粋」な小説世界に1ヶ月浸れるなんて、非常に贅沢だとも言えます。

 

当ブログは、ジャンルという垣根を越えて「深くて純粋」なコンテンツをご紹介するのがモットー。その意味でも、「白痴」は何としても、いっしょに楽しみたいコンテンツです。

 

ドストエフスキーの長編小説を読了するという行為には、険しい登山に似た苦しみと歓びが伴います。多くの人は、最後まで読めずに終わりますが、それには理由があります。読めない原因となる問題を解決すれば、完読するのは難しくはありません。

 

ドストエフスキーの「白痴」を読むためには、最低限の準備ご必要なのです。

 

最初にすべきは「心の準備」。

 

自分はなぜ「白痴」を読まなければならないのか、その目的を明確にしておくと、ちょっとしたつまずきでは、挫折しなくなります。ただの好奇心だけですと、途中で放り出しなくなりますので、読むモチベーションを高めてください。

 

私がドストエフフスキーの「白痴」をオススメする理由は、以下のような効用があるからです。

 

1)「言葉の底力」を体感できる。

 

2)言葉が生まれ出てくる源泉としての深い精神性(純粋な魂)に向き合うことができる。

 

3)「人間の心に関する諸問題」を学術的な叙述ではなく、人間関係(心理)劇に(ワクワクしながら)没入することで、深く掘り下げることができる。

 

以上の3点は、以前企画した「言響(こだま)プロジェクト」とも関連しています。

 

自分の思いを他人に伝えることは容易ではありません。このブログでは、音楽をひんぱんに取り上げますが、言葉よりも音楽の方が伝わりやすいことは、おそらくは間違いないことです。

 

ただ、言葉は音楽にない力も持っており、その力は、現代という難しい時代には、どうしても「言葉の底力」は必要になります。

 

「言葉の底力」を発揮した文章が書けなければ、実際に書いてくれが人の文章に接する機会を持たなければなりません。

 

ですから、あきらめないで、まずは過去の偉人が生み出した「言語空間」を楽しみつつ味わうことから始めてみましょう。

 

ドストエフスキーの小説は美文で書かれているわけではありません。ですから、ドスト氏の「白痴」から美しい文章の書き方は学ぼうとしても無意味です。

 

「白痴」には、文章作法とか修辞学を超越した「言葉力」が発揮されていますから、それを存分に味わえばよいのです。

 

良い音楽を聴く時、その感動を「魂が震える」と人は形容することがあります。

 

ドストエフスキーの「白痴」を読んで、魂が震えない人は、おそらくはいないのではないでしょうか。それくらい、「深くて純粋」な小説(言語空間)なのです。

 

では、なぜ「罪と罰」ではいけないのか?

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ウィリアム・アイリッシュ「暁の死線」を読んだ感想

ウィリアム・アイリッシュは、1903年から1968年まで生きた推理小説家です。別名はコーネル・ウールリッチ

 

代表作は「幻の女」「黒衣の花嫁」「喪服のランデヴー」など。「裏窓」はヒッチコックによって映画化されました。

 

ウィリアム・アイリッシュの小説は一時期、むさぼるように読みました。サスペンスの詩人と呼ばれるだけのことはあって、その詩情豊かな表現には存分に酔いしれたものです。

 

さて、今回ご紹介するのは「暁の死線」です。1944年作のサスペンス小説。

 

かなり前に書いた私のレビュー記事を転載いたします。

 

(以下が、レビュー)

 

ストーリー展開、細密な心理描写などは優れている。だが、何か物足りない。中だるみがあり、表現に冗長なところが目につく。

 

最後までハラハラ読ませる力は、アイラ・レヴィンの「死の接吻」と「ローズマリーの赤ちゃん」の方が上である。

 

読者を最後まで引っ張る力を、分析することは難しい。単なる構造論、技術論だけでは済まされないところがある。言葉の喚起力、飽きさせない話法、登場人物の魅力、作者の発するエネルギーなどなど、語りきりないことは山ほどあるのだ。

 

アイリッシュは夜の作家だという思いを新たにした。都会の孤独と悲愁が、彼の作品を暗い霧でおおっている。

 

サスペンスの巧みな演出、シーンの作り方の工夫と冴え、気の効いた会話、豊かな詩情などが彼の作品を高めているが、いかんせんエネルギーが足りない。

 

病性・狂気と健全性・生命力との融合をスティーヴン・キングやガルシア・マルケスは、それぞれの傾向のもとに(前者は深い闇、後者は真昼の陽光)行っている。

 

しかし、ウィリアム・アイリッシュはどこまで行っても夜の作家だ。

 

その彼が、あえて暁に旅立つ若い男女を描いたことは興味深い。夜の作家が、夜明けを描く意味である。

 

この小説には読者を力づける真の力は弱いが、それでもアイリッシュは、何とかニューヨークという猛獣から、人を孤独にさせる怨念から、勇敢に脱出しようとしている。

 

意気揚揚と、「さらばニューヨーク」と彼は珍しく叫んでいる、というふうに感じた。

 

有名な「幻の女」につぐ、名作といえるだろう。

 

(レビューは、ここまで)

 

この「暁の死線」は、日本で4回もドラマ化されています。

 

私が見たのは、山口百恵三浦友和主演の赤いシリーズ最終作として、1980年に放映された「赤い死線」です。

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