- 投稿 2017/01/24更新 2018/05/22
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「とんでもない」という言葉を謙遜の気持ちを込めて丁寧に言ったつもりで「とんでもありません」とか「とんでもございません」と口にしてはいませんか?
この「とんでもありません」「とんでもございません」は、そもそも日本語の用法として間違っていることを、まずご理解ください。
「とんでもない」を辞書で調べてみましょう。 この記事の続きを読む
「とんでもない」という言葉を謙遜の気持ちを込めて丁寧に言ったつもりで「とんでもありません」とか「とんでもございません」と口にしてはいませんか?
この「とんでもありません」「とんでもございません」は、そもそも日本語の用法として間違っていることを、まずご理解ください。
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「ぞっとしない」という言葉をどのように使っていますか? 「ぞっとしない」も、実に間違えやすい日本語の一つなのです。
「ぞっとしない」は慣用句で「おもしろくない、うれしくない、あまり感心しない、いい気持がしない」などの意味で使うのが正しい。
「ぞっとしない」は、例えば以下のように使います。
婚活パーティーに出席したけれど、ぞっとしない人たちばかりなので、途中で退席して帰ってきてしまった。
ところが「ぞっとしない」を「寒さや恐ろしさのために、全身の毛が逆立つように感じる」という意味の言葉「ぞっとする」の否定形なので、「怖くない」という意味に解釈したら、話が通じなくなってしまいます。
例えば「今日来た客たちは、ぞっとしないね」という職場の同僚の意見に対して「確かに、お化けのような顔の人はいなかったし、危ない人もいなかったね」と応えたら、トンチンカンな会話になってしまるのです。
また「この小説の展開は、ぞっとしないね」と先輩に言われた時、「ホラーではないから、恐くはないですよ」と応えたら、「ぞっとしない」の意味を取り違えているので、会話が成立しません。
さらには「ぞっとしない」を「安心できる」という意味にとるという間違いを起こす人もいます。
「次の旅行の企画は、どうも、ぞっとしないね」と上司に言われた時、部下が「ハイ、安心できるルートを選びましたのでだいじょうぶです」と応えたら、上司はきっと怪訝そうな表情をするでしょう。
上司は提出された企画をつまらないと言っているわけですから「今度こそは、面白い企画を出しますので、あと少しだけ時間をください」と応えるべきなのです。
「逃亡者」というタイトルの映画やドラマは多数あって紛らわしいのですが、今回取り上げるのは、デビット・ジャンセンが主演したテレビドラマの「逃亡者」です。
逃亡者 SEASON 1 (全30話収録) [DVD] 2TF-4500
1963年からアメリカABC系で放送されていたドラマ「逃亡者」。日本でも1964年5月16日から1967年9月2日までTBS系列(近畿地区は当時朝日放送)で放送され、高い視聴率を記録。最終回の視聴率は31.8%でした。
リチャード・キンブルという医師が、妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故にあい、脱走するという筋書き。
実は、妻を殺してはおらず、無実の罪で死刑を宣告されてしまったのです。執拗なジャラード警部の追跡をかわしながら、主人公は殺人現場から立ち去った片腕の男を探し求めて旅を続けます。
「逃亡者」はシーズン1~4まであります。1シーズン30話、全部で120話をすべて見終わったので感想を書くことにしました。
見終わって、意外に思ったのは、各シーズンが30話ずつで構成されていて、きちんと4シーズン120話に収まっていること。
日本ですと、回数などは、成り行きで、構成もどんどん変更されてゆくことが多いのですが、30話ずつの4シーズンで構成されていることを意外に思ったのです。
人気があるから、決してずるずると放送を延ばしていたわけではないのですね(たぶん)。
シーズンごとに評価しようとすると、やはりシーズン1が最も質が高い気はします。しかし、圧倒的というわけではありません。
シーズン4からカラーになるのですが、どうしてどうして、シーズン4もなかなか面白いのです。
そして、最終話は前編と後編に分かれる。これは、さすがに盛り上がりました。
はてさて、何から感想を書きましょうか。
このドラマ「逃亡者」は、現実に起きた「サム・シェパード事件」がヒントになって作られたといわれていますが、そういうことは私にとってはどうでも良いことです。
リチャード・キンブルという鮮明な人間像を作り上げた制作スタッフに敬意を表します。
戦中戦後の歴史を学べば学ぶほど、アメリカという国を「怪しい」と感じる今日この頃です。ずいぶん、ひどいことをしてきた国ですし、今もし続けている国です。
でも、このドラマ「逃亡者」をじっくり鑑賞しますと、よくぞ、リチャード・キンブルという人間を、それが架空の人物であり、理想像であるにせよ、造形し得た、アメリカという国は侮辱できないと痛感しました。
凄いなあと感じたのは、120話、全部同じです。話の内容は違いますが、ドラマの雰囲気はもちろん、主人公の生き方、物語の軸、世界観が全く同一でブレがないのでした。
これは、驚くべきことです。
日本のドラマですと、長寿番組になりますと、ドラマでも悲劇だったものが、回によって平気でコメディになっていたりする。
そういう安易な浮気は、無節操な気まぐれは、この「逃亡者」には無縁だったのですね。
状況はいつも異なるのに、その他は(大事なところは)すべて同じである。そんなドラマ、見たことない!
いつ、どの話を見ても、そこには主人公のリチャード・キンブルがいる。まるで、故郷の見慣れた場所に帰ったような気分になるから不思議です。
陰りのある繊細な表情がトレードマーク。ときに、はにかんだ笑みを見せる。どの場所に行っても、弱い者には限りない優しさを与え、子供や女性にはこよなく愛される。
自分を追いかける憎きジェラード警部であっても、彼の命が危ないとなれば、自分の身が危険にさらされても救いだそうとする。何よりも「人の命」を大事にするのが、リチャード・キンブルという人間である。
だから、自分の妻を殺すはずがない。不幸な運命にも耐え、わずかな希望のために、ひたむきに生き続ける……。
こういう魅力あふれる人物に逢えるのであれば、DVDディスクを再生したくなるのは当然だと言えるでしょう。
「逃亡者」はワンパターンのドラマです。マンネリズムもここまで到達すると偉大だと感じます。
それにしても、リチャード・キンブルは何と寂しい人間なんだろう、そして何と温かい人間なんでしょうか。
自分は到底、リチャード・キンブルのように優しく、勇敢な人間にはなれないけれど、なぜか、この「逃亡者」を見ていると、このドラマの中で自分が呼吸しているのを覚えるのです。
「リチャード・キンブルは私だ」と感じている人は、自分では意識していないかもしれないけれど、多いのではないでしょうか。
私のライフワークは「自分の心のふるさとを見つける旅」だと思っているのですが、ドラマ「逃亡者」にも「心のふるさと」に似た原風景を見ている自分に、戸惑いを禁じ得ないのです。