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「育む(はぐくむ)」は、愛情なしには使えない言葉です。

日本語には実に良い言葉があります。ところが、そうした良い言葉にかぎって、使われなくなる傾向があり、それが残念でなりません。

 

今日取り上げる「育むはぐくむ)」も、次第に使われなくなりつつある「美しい日本語のひとつ」です。

 

さっそく「育む」を大辞林で調べてみましょう。

 

は ぐく・む 【育む】

 

( 動マ五[四] )〔「羽(は)含(くく)む」の意〕

 

1)親鳥が雛(ひな)を自分の羽で抱きかかえて守り育てる。 「雛を-・む」 「我(あ)が子-・め天の鶴群(たずむら)/万葉集 1791」

 

2)養い育てる。 「両親に-・まれる」 「豊かな大地に-・まれる」

 

3)大切に守り,大きくする。 「愛を-・む」 「子供の夢を-・む教育」

 

「育む」がもともとは「羽」と「くくむ」がいっしょになってできた言葉だということを知っている人は多くはないでしょう。

 

「くくむ」にはいろんな意味がありますが、この場合は「包む」の意。親鳥が愛しい雛を羽で大事に包む様子から「育む」という日本語は生まれたのです。

 

ふつうに「育てる」とか「育成する」と言ったのでは感じられない何かが「育む」を使うことでじんわりと伝わりますよね。

 

その何かとは「愛情」ではないかと思うのです。

 

効率や時間短縮ばかりを追い求めている現代では、言葉をいきおい事務的で人情味のない、ただの記号に成り下がってゆく傾向が強い。

 

そういう悪しき風潮の中にあって、「育む」は現代人に「もっと大事なものがあるでしょう。愛情を込めなければ、良いものは育ちませんよ」と、やんわり警告してくれていようにも思えます。

 

ですから、愛情がない人は「育む」という言葉は使えないとも言えます。

 

「育む」という美しい日本語を使われなくなり、使う人がいなくなった時、社会は渇ききった砂漠のようになっているのではないでしょうか。

 

事務的に感情を入れないで、さっさと物事を片付けてゆくことは、一見賢そうに見えます。でも実は、もっとも大切なこと、貴重なものを失っていることなのですね。

 

「育む」という言葉がなぜ素晴らしいのか。

 

「育む」には、大切にする、大事にする、ていねいに取り扱う、愛情を込める、労力を惜しまない、という意味が込められているからこそ、美しいのだし、聞いたり使ったりして心が温まるのだと思います。

「培う(つちかう)」という美しい日本語をもっと使いませんか。

美しい日本語のひとつに「培うつちかう)」があります。しかし、最近、あまり使われなくなってきましたね。

 

効率の良さや時間の短縮ばかりを追い求めていたら、「培う」という言葉から離れるばかりでしょう。

 

「培う」という美しい日本語は、なぜか、一人の画家を私に想い出させます。その画家は、日本画の大家である、東山魁夷です。

 

二十代の頃、東山魁夷のエッセイを読み、東山魁夷が日本画家になる経緯を知った時、深い感動を覚えました。

 

東山魁夷という画家は日展の重鎮であり、東京芸大を出たサラブレッド的な画家というイメージがあったのです。

 

しかし、予想に反し、東山魁夷は画家になる前に、傷つき倒れ、何度も挫折を繰り返した体験を持っていました。

 

少年期は心を患い、八ヶ岳のふもとで療養生活を送っていたそうです。その時に、高原の四季の風景を写生し続け、それが東山魁夷の画家の根っ子を育んだのです。

 

一人の人間が画家として独り立ちするまで、いかに自分の中で「画家になるための因子」を、苦悩と憔悴を繰り返しながら培い続けてきたかを知った時、初めて東山魁夷の風景画にある、あの澄んだ淡い色調、その本当の意味に気づきました。

 

東山魁夷が生み出す、あの透明な色調は、深い哀しみと祈りの結晶に他なりません。そして、その境地に至るまで、気が遠くなるほどの年月がかかっているのです。

 

「培う」という言葉を大辞林は以下のように説明しています。

 

つちか・う 【培う】

( 動ワ五[ハ四] )

〔「土養(か)ふ」の意〕

1)長い時間をかけて,育てる。 「克己心を-・う」 「体力を-・う」

2)草木の根元や種に土をかけて草木を育てる。栽培する。 「人なき日藤に-・ふ法師かな/蕪村句集」

 

「培う」という言葉は、地味ですが、じんわりと深く大事なことを伝えてくれます。

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ドストエフスキーの「罪と罰」を読んで、読書は格闘技だと痛感した件

ドストエフスキーの「罪と罰」はまともな感覚で読んだら、発狂してしまうかもしれない。そういうギリギリのところで読むことを人に要求する、聖なる邪悪の書なのだ。

 

基本テキストは新潮文庫の「罪と罰」を採用

 

大学教授とか、冷静にドストエフスキーを研究している者もいるけれど、冷静に分析して理解できないのがドストエフスキーという人間なのだ。

 

さて、今回はこの「罪と罰」を、どのように読み切るか、その対策について考えてみたい。

 

「罪と罰」攻略法、そんなものはない、だろうか?

 

つくずくと思うのだが、この小説、世界最高峰の有難い文学として読まないほうがいい。

 

この小説はそれほど優れた作品ではない、と思っていてちょうどいい。

 

要するにびびったらやられる。受身にまわったら、この小説は嵩にかかった攻め立ててくる。

 

この小説は作者の崇高な思想とか良心、善意といったものだけで書かれたものではないことを知っておいたほうがいい。

 

人物が物語の流れを無視して延々語りはじめる、この無神経さ、喋り出すと止まらなくなる弁舌の異常さは、半分は醜悪な狂気の排泄物だと決め付けてしまってもいい。

 

まともな人間にこんな狂気じみた会話が書けるはずはない。作者は狂っているのだ。決して過大評価する必要もない。

 

何を言いたいかというと、この小説の異常な感染力に気をつけろとい自戒しているのだ。

 

毒の分泌にあてられるのではなく、毒は毒をもって制するくらいの気概でのぞむか、時どき相手の突進をいなしてもかまわない。

 

頭だけで読んでいる人や、研究家で何か変わったことを言って目立ちたいなどと思っている輩には、私は関心はない。

 

繊細で誠実で、感受性の高い、しかも純粋な魂を持った読者にだけ、興味がある。

 

彼らはお手軽小説やお手軽映画をどれほど享受しても何も変わらないことを知っている。

 

だから、わざわざ「罪と罰」という茨の道を選んだのだ。愛すべき友よ、遭難だけは避けようじゃないか。身も心も大切にしつつ、この危うい橋を渡ろう。

 

「罪と罰」は凄い小説だが、それ以上に欠点が多く、低劣な部分もある。

 

だから、この作品の毒に負けないで、自分の力に変えるための意図的な努力に専念すべきだろう。

 

もちろん、通読するだけでは駄目だ。意識的に常に警戒心を持ちながら、敬意を払いつつ、突き放した視点を失わないこと。

 

野性動物のように身をかがめ、全身に注意を張りめぐらして読み進むのだ。

 

そう、これはもう読書などという生やさしい行為ではない。喰うか喰われるかの戦いなのだ。