ドストエフスキーの「罪と罰」はまともな感覚で読んだら、発狂してしまうかもしれない。そういうギリギリのところで読むことを人に要求する、聖なる邪悪の書なのだ。

 

基本テキストは新潮文庫の「罪と罰」を採用

 

大学教授とか、冷静にドストエフスキーを研究している者もいるけれど、冷静に分析して理解できないのがドストエフスキーという人間なのだ。

 

さて、今回はこの「罪と罰」を、どのように読み切るか、その対策について考えてみたい。

 

「罪と罰」攻略法、そんなものはない、だろうか?

 

つくずくと思うのだが、この小説、世界最高峰の有難い文学として読まないほうがいい。

 

この小説はそれほど優れた作品ではない、と思っていてちょうどいい。

 

要するにびびったらやられる。受身にまわったら、この小説は嵩にかかった攻め立ててくる。

 

この小説は作者の崇高な思想とか良心、善意といったものだけで書かれたものではないことを知っておいたほうがいい。

 

人物が物語の流れを無視して延々語りはじめる、この無神経さ、喋り出すと止まらなくなる弁舌の異常さは、半分は醜悪な狂気の排泄物だと決め付けてしまってもいい。

 

まともな人間にこんな狂気じみた会話が書けるはずはない。作者は狂っているのだ。決して過大評価する必要もない。

 

何を言いたいかというと、この小説の異常な感染力に気をつけろとい自戒しているのだ。

 

毒の分泌にあてられるのではなく、毒は毒をもって制するくらいの気概でのぞむか、時どき相手の突進をいなしてもかまわない。

 

頭だけで読んでいる人や、研究家で何か変わったことを言って目立ちたいなどと思っている輩には、私は関心はない。

 

繊細で誠実で、感受性の高い、しかも純粋な魂を持った読者にだけ、興味がある。

 

彼らはお手軽小説やお手軽映画をどれほど享受しても何も変わらないことを知っている。

 

だから、わざわざ「罪と罰」という茨の道を選んだのだ。愛すべき友よ、遭難だけは避けようじゃないか。身も心も大切にしつつ、この危うい橋を渡ろう。

 

「罪と罰」は凄い小説だが、それ以上に欠点が多く、低劣な部分もある。

 

だから、この作品の毒に負けないで、自分の力に変えるための意図的な努力に専念すべきだろう。

 

もちろん、通読するだけでは駄目だ。意識的に常に警戒心を持ちながら、敬意を払いつつ、突き放した視点を失わないこと。

 

野性動物のように身をかがめ、全身に注意を張りめぐらして読み進むのだ。

 

そう、これはもう読書などという生やさしい行為ではない。喰うか喰われるかの戦いなのだ。