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「一期一会(いちごいちえ)」という言葉には、人生の深い闇を知る者の「祈り」が込められている。

ある会社の社長が朝礼で「一期一会(いちごいちえ)」を「いっきいっかい」と言ってしまい、社員たちは反応に困った、という話を聞いたことがあります。

 

これは笑い話ですが、「一期一会」という言葉自体は、とても笑えない、難しさ、深さがあると、私は感じています。

 

ですから、良い言葉だと思っていても、日常では、なかなか使えません。

 

「一期一会」の意味を辞書的に知る。

 

「一期一会」の意味を間違えないためには、その由来を知る前に「一期」と「一会」を分けて理解しましょう。

 

「一期(いちご)」は「人が生まれてから死ぬまでの間。一生。一生涯」という意味

 

「一会(いちえ)」には「一つの集まり・会合。仏教の法会(ほうえ)など」という意味があるほか、「一度会うこと、一度の出合い」という意味にも使われます。つまり「一会」には「会合」「出合い」という2つの意味があるわけです。

 

「一期」と「一会」という2語の意味をふまえると、「一期一会」の意味がはっきりしてきます。

 

「一期一会」を大辞林は次のように説明しています。

 

いち ごいちえ 【一期一会】

1)〔茶会に臨む際には,その機会は一生に一度のものと心得て,主客ともに互いに誠意を尽くせ,の意〕 一生に一度だけ出る茶の湯の会。 〔千利休の弟子宗二の「山上宗二記」にある「一期に一度の会」とあることによる〕

2)一生に一度だけの機会。

 

以上で、辞書的な理解は完了です。次は由来を学びましょう。

 

「一期一会」の由来を知る。

 

「一期一会」という言葉の由来・語源を知っていないと、とても日常生活では使えません。この機会に、その由来を正しく学びましょう。

 

もともとは、茶道から出た言葉です。千利休の言葉ともいわれますが、千利休は書物をあらわしておりません。

 

弟子の山上宗二は「茶湯者覚悟十躰」の一つに、利休の言葉として「路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏(かしこまる)ベシ」という一文を残しています。

 

出典は、山上宗二の著書『山上宗二記』。

 

茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くしなさい」という意味です。

 

さらには、井伊直弼が茶道の心得として、著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」と表現したことにより、四字熟語の形で広まったとされています。

 

『茶湯一会集』に書かれた井伊直弼の言葉は、ウィキペディアで紹介されています。少し長いのですが、なかなか味のある文章なので、引用しておきます。

 

抑(そもそも)茶湯の交會(こうかい)は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會ににふたゝびかへらざる事を思へば、実に我(わが)一世一度の會(え)なり。さるにより、主人は萬事に心を配り、聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう、深切(しんせつ)實意(じつい)を盡(つく)し、客にも此會に又逢ひがたき事を辨(わきま)へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、實意を以て交るべきなり。是を一期一會といふ。

 

以上が「一期一会」の由来の説明となります。次は、個人的な話となって恐縮ですが、この言葉との出逢いのエピソードを紹介しつつ、私なりに「一期一会」を意訳してみますね。

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ガルシア=マルケス「百年の孤独」に関する覚書

ガルシア=マルケスとの出逢いは、私にとってドストエフスキー以来の大事件だった。

 

この大事件からかなりの年月が流れているのに、いまだに私の中で事後処理が完了していない。

 

ガルシア=マルケスの小説「百年の孤独」について、メモしておきたい。あの事件を単なる熱病に終わらせたくないから。

 

「百年の孤独」の文庫本はこちら

 

百年の孤独に関するメモ

 

●誤読を恐れていたのでは、この小説は読めない。

●場面(シーン)ではなく、説話で語る。語る時間が長すぎて、シーンで描いていたら、それこそ馬鹿長い小説になってしまうからだ。

●そんなに長い小説ではない。単行本で422ページしかない。でも、100ページくらいは縮められそうだ。あの同質の短編集「エレンディラ」があるのだから。

●私はマルケスのいわゆる魔術的リアリスムの精髄は、読者を「体が宙に浮くような気分」にさせることにあると思っていたが、この作品は重すぎて、なかなか飛べない。息苦しささえ覚える時がある。だとしたら、私の求めている小説ではないということになってしまう。いや、たぶん作者は私を裏切らないだろう。

●マルケス教の信者になるつもりか。そうかもしれない。日頃の閉塞感から逃れたくて、この小説に食らいついている。あるいは、しがみついている。宗教、哲学、政治、芸術などが救済してくれないとしたら、人は何に救いを求めたらいいのか。

●マルケスは、この途方もない話で何を語りたかったのか。

●人は奴隷とか虜になりたがっているのかもしれない。

●「空想ゆたかなメルキアデスの物語のとりこになった」

●また遠回りしようとしているのかもしれない。でも構わない。ホラー小説には私を真に解放してくれる力はないのだから。

●この小説には西暦の記述がない。原始から現代までの時の流れを描いているのだ。つまり、「百年」以上の時間を伝えようとしているのだ。

●マコンド、ようやく開けそめた新天地、20軒ほどの村から、この物語は始まっていることを忘れてはならない。そして、やがて跡形もなく地上から姿を消してしまう。

●現代小説が進化し形成してきた合理的な小説作法を、マルケスは根本的にくつがえしている。近代リアリズムの否定、現代文明へのアンチテーゼ。

●キーワードは時間。現代小説が得意とする時間の処理法を彼は排除している。だから、読みにくいのだが。

●人を変えるのは戦争であり、革命である。闘争、競争……。

●常識的な小説の文法から逸脱した書き方。

●リフレインを多様することで、物語に統一感を与え、イメージを定着させる。

●終わりのないルフランとは潮騒であり、時の流れ、つまり命の明滅である。彼はそれを残酷に容赦ないタッチで描いた。そこには感傷はなく幻想だけが生まれる。覚悟にも似た潔さが、読者に美なるものを垣間見させる。

●途方もない空想を抱きながら熱い血に愚直な血族たちのたどる道は、宿命的な悲劇にさらされている。

●「百年の孤独」を読んでいると、どんどん自分が孤独になっていることに気づいてしまう。

●容赦なさ、残酷、冷酷無惨、残忍、それらを少し減らし、幻想的なシーンと、人々の大らかさを増やした方がいいと思う。彼は残酷な話を書きたかったのだろう。

●人がばたばた死んでゆく物語は、この小説から流行し出したのではないか。とにかく人はキレイキレイな物語は好まなくなったのだ。

●人は深い哀しみとか傷みを胸に抱く時、幻想・幻視を見るという。それがマルケスの方法論の根底にあるのではないか。

●ストーリー・ラインの鮮明さ、滑らかさ、アップ・ダウンなど、効果的なストーリー・テリングを無視。寓話的エピソードぎゅう詰形式。満員電車のように、ぎしぎし挿話を詰め込んでいる。

●個々の語りの巧さは天才的だ。

●この小説が「ホット・ドッグのように売れた」理由がわからない。

●共同体が大きくなり、やがて死滅する過程を、その中に人間の赤裸々な欲望を盛りこみ、大胆不敵に描き切っている。

●作品はわかってしまったらお終いなのだ。だから、この小説はいつまでも楽しめるのである。

●とにかく筆力が物凄い。

●すべてが唐突に起きる。偶然の連続。

●「自分自身の開放のために戦う」

●一人ひとりの人間が持っているもの、力・光・風・気・オーラ、それらを呼び覚ましてくれる力が、この作品にはある。

●合理的ストーリー・テリングの否定。

●過剰な感情(愛・恐怖・哀しみ)⇒必ず幻覚を生む。

●極端な美は不安を生む。

●恐ろしく長い大人のための残酷童話だ。そこの世界は残虐性と幻想性との対比によって構成されている。

●「一本の指にふたつも指輪をはめて」

●キャラクターの作り方を盗む…何てことなできない。

●その深い孤独は余りにも苦渋に満ち満ちている。

●この小説は、地上には幸福な安息の場所はないことを告げているようだ。

●この小説はカタルシスとはは何かを教えてくれているようだ。。

●この小説によって、救われる人間が何人いるのだろうか。そもそも小説によって救われようと思うことが間違いなのだろうか。

●自分という畑を広く深く耕すことの契機となってくれればいい。

●すべては夢幻。

●この小説そのものが謎なのだ。

●大嘘、オオボラを大胆に平気で語ることで、途方もない話を信じ込ませてしまう。

●マルケスが戦っているのはキリスト教、つまり一神教の神ではない。それはむしろ近代文明だ。科学や文明は人間を幸せにしなかった。医学の進歩は疫病による大量死をなくしたが、現代社会は次々と新種の病気を生み出している。まるでいたちごっこだ。原始共同体の時代から近代社会ができるまでを「百年の孤独」は描いている。
現代は宗教を喪失している。必要なのは新たな宗教を生み出すことではない。洪水のように押し寄せてくる情報を取捨選択し、原始的な生命感を取り戻す生き方を獲得するかが問題なのだ。ただ彼もやはり結論は述べていない。

●この小説がホットドッグのように売れた理由はたぶん、ユーモア、セックス、途方もないスケールの大きさ、冷酷無惨な描写、豊かな語り口、幻想性、魔術的リアリズムなどなど、挙げていったら切りがない。

 

百年の孤独の用語集

 

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、

あの遠い日の午後、

魔法の鉄の棒、自然の知恵をはるかに超え、奇跡や魔法すら遠く及ばない、とてつもない空想力、呪文、銅のロケット

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映画「そして父になる」は是枝裕和監督の最高傑作?

是枝裕和監督の作品はテイストに際立った癖のようなものがあり、それほど好きとは言い切れないできました。

 

意図して、こういうふうにしたいんだろうな、とは感じつつ、その意図が作品として成功していないことも多々あったと記憶しています。

 

今回鑑賞した「そして父になる」は、そういう意味で、是枝裕和らしい味付けは、積極的に最初からあきらめて映画を再生しはじめたのでした。

 

しかし、私の予測は良い意味で裏切られました。是枝節とでも呼ぶべきテイストはそこかしこに息づいていながらも、少しも我慢する必要がなかったのです。

 

見終って、脱力するくらい、じんわりと、しかも深いところで心にまとわりついて離れない、奇妙で心地よい感動に、しばし浸ることができました。

 

見る映画を決める条件として、出演する役者が、私の場合、かなりの比重を占めます。

 

「そして父になる」は、福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキーが出演していますが、私が好きな俳優は一人もいません。

 

でも、映画を見終った時、この4人の役者全員を好きになっていました。

 

よくぞここまで、水準の高い作品を作ることができたものだ。この映画の作品として優秀さにも感心したけれど、よくぞこの境地にまで到達した是枝裕和監督の成長を賞賛したい」というのが私の率直な感想です。

 

不遜かもしれませんが、映画を愛し、映画黎明期の名作から、長いこと、映画というものを鑑賞してきた者として、あえて、こう申し述べたいと思います。

 

既存の映画にない新機軸に挑戦していること、また才能が実に豊かであることは確かだったのですが、それを本当の意味で活かせるだけでの映画監督としてのトータルパワーが足りなかったのです。

 

それが「そして父になる」によって、是枝監督らしさをギャップなく、視聴者の感動へのつなげられる水準に、監督手腕が達したと言えるでしょう。

 

以下が、是枝裕和の撮った長編映画です。

 

幻の光(1995年)

ワンダフルライフ(1999年)

DISTANCE(2001年)

誰も知らない(2004年)

花よりもなほ(2006年)

歩いても 歩いても(2008年)

大丈夫であるように -Cocco 終らない旅-(2008年) - 2015年に再上映

空気人形(2009年)

奇跡(2011年)

そして父になる(2013年)

海街diary(2015年)

海よりもまだ深く(2016年)

 

かなり前に「幻の光」を見たのですが印象に残らず、何年か経って映画館で「誰も知らない」を見て「オッ」と思い、続けて「DISTANCE」「ワンダフルライフ」を鑑賞。

 

そして、また数年経ってから「歩いても歩いても」を見ました。

 

正直、「そして父になる」を見なかったら、独特の雰囲気のある質の高い映像をつくる映画監督ですね、くらいの評価で私の中では終わっていたと思います。

 

以下、「誰も知らない」を劇場で見た後に私が書いた、簡単な感想文を引用します。

 

1)最近のハリウッド映画の反語として見た。

 

ハリウッド工場で作られる、商業主義、効率性を重視した合理主義に、うんざりしている人は多いのではないだろうか。

その意味で、この映画はいっぷくの清涼剤として存在感を示していた。

どたばた人が死んだり、ストーリーのために人間が動いている、ご都合主義はこの映画には無縁だ。

フラットで純粋な仕上がりが、正常な視聴者との対話を生んでいる。

 

2)静けさを湛えた、皮膚感覚のある映像美は珠玉。

 

「ワンダフルライフ」のような幻想性はないが、静かで、適度な湿気のある肌触りを感じさせる映像は、この監督ならではのもの。

刺激ばかり強い映画を見ていると薬物中毒にでもなったように、神経が病んでしまうが、そうならないために、この映画はあるんですよ、と主張していると感じた。

 

「誰も知らない」を見た時、強い感銘を受けたのですが、しばらく感想が書けなかったのです。感動が大きすぎて書けなかったのではなくて、何かが足りないと感じていたからだ、と今なら自分で納得できます。

 

「そして父になる」を見なかったら、是枝監督の鮮明な代名詞として「誰も知らない」が私の中で鳴り続けていたと思います。良い意味でも悪い意味でも……。

 

ところが「そして父になる」は、これまで是枝監督の長所でもあり、ある時は空まわしり、鼻につくことさえあった独特の映像テイストが、ごく自然な空気感に変わっていたのでした。

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