ドストエフスキーの「白痴」をじっくり時間をかけて、読み切ってゆこうと思います。

 

ただ、文庫本で1500ページ近くある長編ですから、そんなに完読は簡単ではありません。

 

1日に50ページ読んでも、1ヶ月もかかるのです(ここでいう「完読」は「完全理解」という意味ではありません)。

 

でも、逆に考えると、これほど「深くて純粋」な小説世界に1ヶ月浸れるなんて、非常に贅沢だとも言えます。

 

当ブログは、ジャンルという垣根を越えて「深くて純粋」なコンテンツをご紹介するのがモットー。その意味でも、「白痴」は何としても、いっしょに楽しみたいコンテンツです。

 

ドストエフスキーの長編小説を読了するという行為には、険しい登山に似た苦しみと歓びが伴います。多くの人は、最後まで読めずに終わりますが、それには理由があります。読めない原因となる問題を解決すれば、完読するのは難しくはありません。

 

ドストエフスキーの「白痴」を読むためには、最低限の準備ご必要なのです。

 

最初にすべきは「心の準備」。

 

自分はなぜ「白痴」を読まなければならないのか、その目的を明確にしておくと、ちょっとしたつまずきでは、挫折しなくなります。ただの好奇心だけですと、途中で放り出しなくなりますので、読むモチベーションを高めてください。

 

私がドストエフフスキーの「白痴」をオススメする理由は、以下のような効用があるからです。

 

1)「言葉の底力」を体感できる。

 

2)言葉が生まれ出てくる源泉としての深い精神性(純粋な魂)に向き合うことができる。

 

3)「人間の心に関する諸問題」を学術的な叙述ではなく、人間関係(心理)劇に(ワクワクしながら)没入することで、深く掘り下げることができる。

 

以上の3点は、以前企画した「言響(こだま)プロジェクト」とも関連しています。

 

自分の思いを他人に伝えることは容易ではありません。このブログでは、音楽をひんぱんに取り上げますが、言葉よりも音楽の方が伝わりやすいことは、おそらくは間違いないことです。

 

ただ、言葉は音楽にない力も持っており、その力は、現代という難しい時代には、どうしても「言葉の底力」は必要になります。

 

「言葉の底力」を発揮した文章が書けなければ、実際に書いてくれが人の文章に接する機会を持たなければなりません。

 

ですから、あきらめないで、まずは過去の偉人が生み出した「言語空間」を楽しみつつ味わうことから始めてみましょう。

 

ドストエフスキーの小説は美文で書かれているわけではありません。ですから、ドスト氏の「白痴」から美しい文章の書き方は学ぼうとしても無意味です。

 

「白痴」には、文章作法とか修辞学を超越した「言葉力」が発揮されていますから、それを存分に味わえばよいのです。

 

良い音楽を聴く時、その感動を「魂が震える」と人は形容することがあります。

 

ドストエフスキーの「白痴」を読んで、魂が震えない人は、おそらくはいないのではないでしょうか。それくらい、「深くて純粋」な小説(言語空間)なのです。

 

では、なぜ「罪と罰」ではいけないのか?

長い解説は省略しますが、「白痴」には「罪と罰」にある、副作用がないからです。

 

副作用とは、ドストエフスキー文学にある、毒の分泌、病的な精神世界の描写が、「白痴」には少ないので、極端に暗い気持ちになったり、病的な感覚に悩まされずに、読んでゆけるので、ある程度、安心して推奨できます。

 

「白痴」を最初に読んだ頃が懐かしい。大学ノートに登場人物や気に入った会話などを、あぶら汗を流しながら、書き出しつつ、読み進んでいった記憶があります。

 

正直、そうしたロッククライミング的な読書術を、推奨する気は毛頭ありません。

 

完読をはばむ障害はできるかぎり、取り除いた方が良いのです。

 

私が読んだ時には存在しなかったのですが、「白痴」を読了するための力強いサポート本が出ていますので、ご紹介します。

 

すらすら読めるドストエフスキー

 

買って読みましたが、本当に役に立ちました。

 

心の準備ができ、この「すらすら読めるドストエフスキー」が手元にあれば、長い登山道も、それほど険しくなくなることでしょう。