ドストエフスキーの名作長編小説「白痴」を、順を追って読み解いてゆくことにします。

 

テキストは新潮文庫版で。最近、文字が大きくなって読みやすくなりました。私が昔、最初に読んだ版は、文字が小さすぎて、今でもとても読めません。

 

白痴(上巻)改版 (新潮文庫) [ フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス ]

 

白痴の[第一編1]の分析

 

いわゆる書き出しです。これはなかなかいいですね。さっと、物語の舞台に引き込まれしまいます。

 

 

1)時

 

「罪と罰」が夏で、「白痴」はです。

 

2)場所

 

舞台は「白痴」も「罪と罰」も、ペテルブルク。そこに向かう汽車の中での会話。

 

3)人物

 

出てくる人物は、「罪と罰」は貧しい人々たちが中心でしたが、今度は貴族大金持ちが出てきます。

 

ムイシュキン公爵ロゴージンという主人公をさっそく出し、二人を紹介。

 

全く正反対の二人。癲癇もちの聖人のムイシュキン、情熱家だが、孤独な魂を持ち、金と女に翻弄されているロゴージンという設定は絶妙ですね。

 

「罪と罰」みたいに、ラスコーリニコフという神経症を患った青年に偏りすぎると辛いものがあります。

 

「白痴」は、人物設定だけでも、巧いなあと思います。

 

たぶん「罪と罰」は、乱暴な言い方をするなら、アイデア倒れだったのでしょう。ユニークな思想に取り憑かれた青年が老婆を殺す……そこまでは完璧でした。

 

しかし、それに見合うだけの結末を描くことはできませんでした。

 

「白痴」に話を戻しましょう。

 

男性の主人公二人に加え、ヒロインであるナスターシャという公爵令嬢の存在をも、ここで示しまます。彼女はペテルブルク第一の美女

 

ロゴージンは多額の財産を相続するらしく、ここで美女と大金で、読者の興味をそそります。

 

この人物設定には隙がありません。ここですでに、読者は、これは面白そうだと思い込んでしまうでしょう。

 

病弱な間抜けなほど純粋な男、美女と野獣、そして、大金。かなりベタな設定ですが、このわかりやすい人物設定が、ドストエフスキーの長編小説の特徴になっています。

 

何しろ、物語という器に盛られる思想は、崇高かつ深淵、しかも難解ですから、器(物語設定)そのものは、シンプルな方が良いわけですね。

 

4)状況

 

さらに卓抜なのは、ここでレーベジャフという小役人を登場させていることです。ムイシュキンとロゴージンとレーベジェフの三人の会話だから面白いんです。

 

この品性下劣な小役人レーベジェフが情報を提供し、状況を説明する役目を果たします。

 

ムイシュキンは行き場を失っているうえに癲癇もちで、馬鹿正直な男です。ロゴージンは多額の財産相続の問題をかかえているうえに、絶世の美女ナスターシャにのぼせている。

 

こういった状況をレーベジェフを出すことで、無理なく、そして下世話ではありますが、面白く伝えることができているのです。

 

5)視点

 

三人称客観視点のようです。作者視点と言ってもいいかもしれません。

 

登場人物の誰かの視点で、物語を進行させるのではなく、作者がすべての人物を統括しながら、物語ってゆくみたいです。

 

今後、視点がどうなるかも、注意が必要でしょう。

 

 

ドストエフスキーの「白痴」。その書き出し(冒頭部分)を熟読している。ムイシュキン公爵ロゴージンの人物描写は、まさにドスト氏流。

ただ克明であるだけでなく、その人物の核心を象徴化するような鋭い描写だ。

 

「罪と罰」の時にも感じたが、この人物描写は誰にも真似できないと思われるほどの魅力を持っている。

 

この二人のキャラが正反対であることに注目。ムイシュキン公爵は聖人であり、ロゴージンは野人だ。

 

「罪と罰」よりも、かなり読みやすい。

 

この正反対のバディ(相棒)小説なら、快調に物語は進むだろう。それに比べ「罪と罰」は辛かった。

 

ラスコーリニコフの視点がほとんどだから、このヒステリックな青年の生理と常にいっしょにいなければならなかった。

 

これは辛い。20歳の時に私が挫折(「罪と罰」を途中で投げ出)したのは、あの神経症的な終わりのない語りのせいだろう。

 

「白痴」では、どうやら語り手の神経症に悩まされる心配はなさそうだ。