小川和久「日本人が知らない集団的自衛権」の感想

いまや流行語のようにさえなってしまっている「集団的自衛権」ですが、この言葉は実にわかりにくいのですね。

このわかりにくい「集団的自衛権」という言葉を、わかりやすく解説してくれている本があります。

それが軍事アナリストである小川和久の「日本人が知らない集団的自衛権」です。

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私は右でも左でもありません。右翼でも左翼でもないのです。そうしたイデオロギーとは関係なく、集団的自衛権、自衛隊、憲法、安保などという厄介な問題をクリアに説明してくれているのが、小川和久の「日本人が知らない集団的自衛権」なので、オススメです。

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集団的自衛権の問題は、まず情緒的なことを排除しないと正確に把握できません。小川和久は、冷静かつ明晰に、数値を重視しながら、国防について語ってい点が貴重なのです。小川和久の意見に賛成するか反対するかは別にしても、必ず読んでおくべき「集団的自衛権」の関連本だと私は思っています。

希望とは本当の自分に帰ること。

左膝の半月板を損傷にまともに歩けなくなりました。歩けなくなったことで、見えてきたことがあります。

 

「最大の勇気とは希望することだ」という言葉を知った時、ガツンと来るものがありました。

 

希望がなければ生きることは空しい。しかし、希望とはいったい何のか、それがなかなかわからないのですね。

 

膝を痛めてから、強く思うようになったことがあります。

 

希望とは本当の自分に帰ることなのだと思うのです。人生は旅なのですが、人生という旅は本当の自分に向かって歩いてゆく道程を意味するのだと、最近、しみじみと感じ入るようになりました。

 

本当の自分に帰ること、それが私にとっての希望です。その希望という光に向かって進むこと、が私にとって生きることだ、そんな気がしてなりません。

 

膝のリハビリはなかなか進みませんが、この膝が完全には快癒せずとも、希望への道をとぼとぼと歩んでゆこう、そんな風に想う今日この頃です。

「文は人なり」の意味とは?

文は人なり」という言葉を知ったのは、ずいぶん昔のことです。日本で最高の評論家と評価されている小林秀雄の本の中に「文は人なり」が出ていて、良い言葉だなと強く感じたのを今でも鮮明に憶えています。

 

故事ことわざ辞典で「文は人なり」を調べますと、この言葉を最初に言ったのはフランスの博物学者であるビュフォンとありました。

 

「文は人なり」は、1753年にアカデミーフランセーズの入会演説で、ビュフォンが語った言葉だそうです。

 

世の中に名言と呼ばれる言葉は無数にありますが、その中でも「文は人なり」は特に素晴らしいと、今になってしみじみと感じ入っています。

 

「文は人なり」は「書いた文章には、その人自身が隠しようもなくあらわれる」ことを示しているのですね。

 

文章は技術だけではどうにもならない面があります。私が運営する「風花塾」でライティング講座をプロのライターさんにお願いしているのですが、スカイプで話していた時に、その方がおっしゃった言葉が実に印象的でした。

 

文章には、それを書いた人がどうしようなく反映されてしまうので、文章を直すとしたら、その人自身に変わってもらわないことにはどうにもならない場合がある。

 

文章には、その人の価値観、美意識、さらには「生き方そのもの」が、隠しようもなく反映されてしまうことは確かです。

 

「生き方」自体が歪んでいたら、その歪みが文章に出てしまうのです。どんなに表面を美辞麗句で飾ったところで、その人自身の本質は必ず滲み出る。

 

要するに、文を語る場合、その人と切り離して評価することは不可能だということです。

 

文章を磨くことは、自分自身を磨くことにほかなりません。凛とした文体を具現化しようと思ったら、生き方が凛としないことにはどうにもならないわけです。

 

以上の意味から、文章道は人間道であると言えます。