三國連太郎が主演した映画「息子」と「飢餓海峡」を続けて見た感想

少し前ですが、三國連太郎が主演した映画を続けて見ました。「息子」と「飢餓海峡」です。

 

映画「飢餓海峡」はこちらで視聴可能です

 

見た直後にそれぞれの作品の感想を書けなかったので、今回は、三國連太郎という役者について何か記してみたいと思います。

 

三國連太郎(1923年(大正12年)1月20日 - 2013年(平成25年)4月14日)は、まぎれもなく日本を代表する俳優でした。

 

主演した作品がどれくらい有名かではなく、出演した作品で示した演技力の質という点で「役者力」をはかるならば、三国連太郎は五指に数えられる役者であると私は感じています。

 

三國連太郎が出演した映画で私が見て忘れられないのが「ビルマの竪琴(1956年)」「王将(1962年)」「切腹(1962年)」「飢餓海峡(1965年)」「にっぽん泥棒物語(1965年)」「息子(1991年)」「大病人(1993年)」などです。

 

テレビドラマでは、1976年に放送された「赤い運命」を最近になって鑑賞したのですが、その圧倒的な演技力には唸らずにはおれませんでした。

 

私は何を言おうとしているのか、自分でも判然としません。一昨年の2013年に三國連太郎が亡くなってしまい、本物の巨星がまた一つ消えたことを嘆こうとしているのでしょうか。

 

いや、ため息をついてはいけないのでしょうね。昭和という時代への郷愁といわれようと、良かったものは良いと、凄かったものは凄いと、粘り強く語り継いでゆくことが大事だと思っています。

 

三國連太郎が演じてきた人間像には、今の日本人が忘れ去ろうとしている「非常に大事なもの」が含まれていることは確かです。

 

好きか嫌いかと問われたら、嫌いな人間を三國連太郎は演じてきたのですが、それなのに、その濃厚な人間臭さに、なぜか惹かれてしまう。

 

「非常に大事なもの」が具体的に何であるかについて、詳細に語る準備が、今の私にはできていません。

 

ですから、これからも時おり、三國連太郎について語ることで、その「非常に大事なもの」を見つけてゆきたいのであります。

テレビドラマ「塀の中の中学校」でも、渡辺謙の存在感が圧倒的でした。

テレビドラマ「塀の中の中学校」は、長野県松本市にある「松本少年刑務所」の中にある公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」が舞台となっています。

 

実在する刑務所内で実際にロケ撮影が行われた、日本でただ一つのテレビドラマです。

脚本は内館牧子。

 

私はTBSオンデマンドで見ました。何の予備知識もなくパソコンで鑑賞したため、映画なのかテレビドラマなのか、判別がつきませんでした。

 

モンテカルロ・テレビ祭のテレビ・フィルム部門においてゴールデンニンフ賞(最優秀作品賞)、モナコ赤十字賞、最優秀男優賞(渡辺謙に対し)を受賞いています。

 

最近は特に、有名な国際映画賞でさえも、受賞作品のレベルが怪しくなっているので、受賞作品だからといって本当に優れた作品かどうかはわかりません。

 

ただ、一度鑑賞してみれば納得されると思いますが、この「塀の中の中学校」、現在の邦画の水準をはるかに超えた質の高いテレビドラマです。

 

義務教育を終了していない受刑者のために、刑務所内で義務教育が行われていること自体を、知らない人が多いのではないでしょうか。

 

このテレビドラマは、義務教育を刑務所内で受けている受刑者の姿を描いており、それだけでも、かなりの価値があることは間違いありません。

 

正直、作り方がドラマ的すぎて、リアリティという点では、弱いと感じました。ドラマにするために、エピソードが詰め込まれ過ぎていて、それが作品としての品格を下げている気さえします。

 

それと、オダギリジョーのセリフに難点がありました。説明すぎ、また軽すぎます。他のシーンにも言えますが、役者をしゃべらせずに、表情だけで語らせる演出がもっと欲しかった。

 

しかし、そうした弱点を補って余りある存在が、この「塀の中の中学校」にはありました。それは2人の俳優です。

 

渡辺謙大滝秀治

 

渡辺謙は演出によっては、もっともっと素晴らしい演技ができる役者なので、少し残念に思いました。でも、それでも、渡辺謙の存在感は揺るぎがなく、このテレビドラマの軸となっています。いえ、心臓と呼んだほうが適切かもしれません。

 

渡辺謙が出演したテレビドラマについては、こちらでも語っています。

夏芙蓉(風花未来の詩3)

本当に久しぶりに詩想がわいたので、書きとどめておきます。

 

夏芙蓉

 

遠い、遠い夏の日

かなたに見える樹々が
風に揺れているのを眺めながら
夕暮れの静けさの中を
独り歩いていた

 

あの夕暮れは、明るかった

陽は大きく傾きかけているのに
不思議に、草も木も空も
明るく輝いているのだった

 

陽の光は
全部を照らしだそうとするのではなく
大切なものだけを
一心に照射しようとしていたのかもしれない

 

あの遠い夏の日
私は自分の名前を想い出せないほど
憔悴しきっていた

それなのに、あの夕暮れ時は
帰りのことを気にせずに歩きつづけていたのだ

 

風がやんだことに気づいた時
私は足をとめていた

誰かに見つめられている気がして
後ろを振り返った

 

薄闇の中から、くっきりと浮かび上がり
私の眼を真っ直ぐに見つめていたのは
一輪の花だった

 

夏芙蓉

 

薄紅の花は、微笑んでいるかに見えた

その涼しげな眼差し
やわらかで、凛とした姿が
忘れたくないことだけを
鮮やかに想い出させてくれた

 

あの夏芙蓉に出逢った日から
数え切れないほどの季節がめぐっている

 

薄紅の花のことを想い出すゆとりさえなく
いくつもの夏を過ごしてきた

 

あの静けさの中に帰ってゆきたい

夏芙蓉のいる夏を
もう一度、迎えられたら

 

私は33際の時、大病しまして、半年以上も入院生活をよぎなくされました。

 

その時の夏のことが、ふと今日、帰り道を歩きている時に浮かんできました。

 

実は、この夏芙蓉については、日記で一度触れているのでした。そのことを自分でも忘れておりました。⇒夏芙蓉は「忍」の花?