33歳の時、私は病に倒れ、入院を余儀なくされました。冬に病棟に入ったのですが、季節はもう夏になっていたのです。五月の連休には退院できるのではないかと主治医に言われていたのに、病棟を出られるめどはいっこうにたちません。

あの日は、散歩をしていても、それほど風を感じないのに、遠くに2本並んで立っていた大きな栃の木の梢が揺れていました。

散歩の帰り道、足ととめて、木々が風に揺れるのを眺めることは、知らぬ間にささやかな楽しみになっていたのです。

ふと誰かに見つめられている気がして、振り返ると、そこには、薄紅の夏芙蓉の花が咲いていました。

厳しい暑さの中で、凛とした姿で立っている芙蓉の花。

あの時、確かに、私は夏芙蓉に、見つめられていたのだと思います。その涼しげな眼差しに、勇気づけられたのでした。

歳月が流れ、今になってあの芙蓉の花を想い出しますと、夏芙蓉は「忍」の花だと、染み入るように感じられるのです。

「忍(しのぶ)」という字は、心に刃(やいば)を乗せています。夏芙蓉の澄んだ眼差し、その優しさは、無言の強さからにじみでていたのでしょう。

白い花弁のにじむ紅は、血の色だとも想えます。

ひょっとすると、あの夏芙蓉の花は、誰かの化身だったのかもしれません。

化身となって現われた人は、どれくらいの長い間、心に刃を乗せたまま、運命のいたずらに、耐え忍んできたことか。

無事に退院した後、また私は社会の荒波にのみ込まれてゆくのですが、あの日、あの時に、夏芙蓉の花に出逢ったおかげで、完全には道を踏み外さずに生きてこられた気がしています。

芙蓉の花に見つめられていた、あの夏の日の静けさに、帰ってゆきたい、しきりとそう思うのです。