山下耕作監督の映画「兄弟仁義」の完成度は半端ない。

どんなものかなぁと、不安と期待が入り混じった気持ちを抱きつつ、TBSオンデマンドで、映画「兄弟仁義」を見てみました。

 

この作品は、30歳くらいの時にビデオレンタル店で借りて見たのですが、ほとんど何も覚えていないのです。いわゆる任侠映画のパターンにはまった映画だな、くらいの記憶しかありません。

 

ところが、今回見直してみて、その完成度の高さに舌を巻きました。

 

もちろん任侠映画の定形ではあります。しかし、ワンシーン、ワンシーンが丁寧に作られていて、見応えは充分でした。

 

主題歌を歌った北島三郎松方弘樹が出演。鶴田浩二は友情出演となっておりますが、実質は主役級の存在感を見せています。

 

「走れメロス」に似た設定があったり、任侠映画でありながら、人間の描き方は文芸的でさえありました。クライマックスとラストシーンのカメラアングルも秀逸であり、単なるB級エンタメ作品を超越しています。

 

「兄弟仁義」は任侠映画の枠に閉じ込めない方が良いでしょうね。日本映画の古典として、この「兄弟仁義」は語り継がれるべきだと思ったほどです。

 

監督は、三島由紀夫が絶賛したと言われる、映画「博奕打ち 総長賭博」の山下耕作です。

 

この映画監督の名前すら知らなかった私ですが、この「兄弟仁義」を見て、力量は確かなものがあると確信。続けて「博奕打ち 総長賭博」も鑑賞してみました。

木下夕爾の詩「晩夏」がもつ牧歌的な抒情は貴重です。

今回ご紹介する詩は、木下夕爾(きのしたゆうじ)の「晩夏」です。昔は教科書にも載っていたらしいのですが、ご存知でしょうか。

 

【動画】(朗読)木下夕爾「晩夏」

 

晩夏

 

停車場のプラットホームに
南瓜(かぼちゃ)の蔓が匍(は)いのぼる

 

閉ざされた花の扉(と)のすきまから
てんとう虫が外を見ている

 

軽便車がきた
誰も乗らない
誰も降りない

 

柵(さく)のそばの黍(きび)の葉っぱに
若い切符きりがちょっと鋏(はさみ)を入れる

 

木下夕爾の詩「晩夏」の朗読はこちらに

 

木下夕爾(1914年10月27日~1965年8月4日)は、日本の詩人、俳人。

 

第一詩集「田園の食卓」が出版されたのが1939年で、最後の詩集「笛を吹くひと」が出版されたのが1958年ですから、戦前から戦後にかけて活躍した詩人だと言えます。

 

近代詩と現代詩の中間に位置する、ユニークな牧歌詩人と呼ぶべきでしょうか。

 

さて、この「晩夏」は初めて読んだのは、私がまだ20代のはじめの頃です。

 

当時、愛読していた、中原中也にある「生き焦っている感じ」は、木下夕爾の詩にはありませんでした。

 

血気盛んな20代の私は、木下夕爾の詩で満足はできなかったのですが、束の間の和らぎを得ることができたのです。

 

こうした牧歌的な抒情が、これほどまでに巧みに、かつシンプルに表現された詩はほかにはなく、日本の詩の歴史にとっても、また私にとっても、今でも非常に貴重だと感じるのです。

言葉は発光体です。

光あふれる言葉とは?

 

言葉が色あせ、完全に干からびてしまった時、風花は文章を書くことを断念すると思います。

 

わずかではありますが、古い幻灯機のような微細な光ではあっても、光のある言葉を書きたいと切に願っております。

 

では、どうしたら、光ある、発光体としての言葉が書き続けられるのでしょうか?

 

生きることに前向きになった時に

「夜と霧」で有名な心理学者のフランクルは、意外な言葉を遺しています。

 

もう自分の内側を見つめるのをやめましょう。人生が、社会が、自分に何を期待しているのかに目を向けましょう。

 

私も若い頃は、文章表現とは、自分自身の内面を見つめ、内側にあるものを表出することだと信じていました。

 

実は、真の表現とは、そういうことではないと、フランクルは教えてくれているのですね。

 

人生に期待するのではなく、人生が自分に何を期待しているのか、そのことに気づく方が大事だとも、フランクルは静かに語っています。

 

多くの人は、自分をまるごと肯定されたい、まるごと評価されたいと願っています。

 

少ない努力で、最大限の評価を得たいと思っている人さえいるのですね。

 

そういう人たちにフランクルは他人に期待するのではなく、自分自身が他人の期待に応える方が美しい生き方だと主張しているのではないでしょうか。

 

他人や社会に期待するのではなく、自分自身が期待に応えようとする、そのことが、実は「前向きに生きること」にほかなりません。

 

「もらうこと」を期待するのではなく、「できることをする」決意した人の文章はビックリするほど強くなります。

 

記事が自立性を得るからです。

 

自立した言葉は、光を放ちます。

 

あなたも、より豊かな発光体としての言葉を書けるようになるために、フランクルの視点を取り入れてみませんか。