黒澤明の映画「白痴」を見た感想

今回は黒澤明の「白痴」を取り上げます。

 

「白痴」こそ、名作映画中の名作映画です。

 

映画「白痴」はこちらで視聴できます

 

最初のレビューから10年たって、再レビューしてみたら意外な展開に

 

この映画を黒澤明の最高傑作だというと、反論されるでしょうか?

 

「白痴」

 

製作年 : 1951年

製作国 : 日本

配給 : 松竹

 

ドストエフスキーの原作を、久板栄二郎と黒澤明の共同脚本で、「羅生門」につぐ黒澤明の監督作品、松竹と映画芸術教会の提携作品として企画は本木莊二郎。

主演者は、「善魔」の森雅之、「悲歌」の三船敏郎、「野性」の原節子、それに志村喬、東山千栄子、久我美子、村瀬幸子、千石規子、柳永二郎などが助演(gooのデータより)。

 

(以下、古い記事より転載)

 

黒澤明の「白痴」を観た。これで3回目だと思う。

失敗作、偉大なる駄作だとか思った記憶があるが、今回観て、これはもう凄い世界を描いたものだなあと素直に感じた。

ずいぶん配給会社からカットされたという話だが、オリジナル全長版を見てみたいものだ。

4時間でも5時間でも、ぜひ見たい。

 

ドストエフスキーの原作を今読んでいるが、この異様な長さを思えば、5時間の映画など短いと感じるだろう。

ドスト氏は、長く書くという病に侵されていたのではないかと思ってしまうほど、彼の小説は怖ろしく長い。

登場人物を減らし、会話を切り詰め、本筋とは関係のない挿話はカットし……という具合に短くする工夫をすれば少なくとも半分まではページを減らせるだろう。

 

それに比べ、黒澤の「白痴」は、言葉足らずで終わっている感がある。ラストのほうが呆気ないくらいだ。

 

原作ではムイシュキンが26歳、ロゴージンは27歳ということになっているが、映画ではかなり年かさになっている。だが、男優二人は熱演していて素晴らしい。

いかんせん、ナスターシャとアグラーヤ役は、原節子と久我美子では無理があった気がする。

 

かといって、この意欲作をこき下ろす気は毛頭ない。

日本で、これほど骨太な大作に挑んだ監督がいたというだけで感動的だ。

全体のバランスとかテンポなど、難を言えばかなり出てくるだろうが、それらを超越した力が、この作品には確かにある。

 

(転載は、ここまで)

 

「白痴」は「羅生門」の次に作られたことに注目。

その後、黒澤明はヒット作を何本を世に送りだしましたが、興業的には「白痴」も「羅生門」も低調でした。

 

しかし、この2作こそ、実は黒澤明映画の頂点を示すものだと私は確信しています。

 

映画は娯楽です。ですから、面白くなければ、観客は歓びません。

でも、その一方で、映画は芸術であるという価値観があります。

 

芸術という視点から評価すると、「羅生門」と「白痴」は、とてつもない透徹感を有していると言わざるを得ません。

 

「白痴」などは、完成度は低いのに、表現された精神性が崇高なので、その精神性で作品の不備などを帳消しにしてしまっていますね。

 

「羅生門」はアクションで、「白痴」は心理で、ドストエフスキーとシェイクスピアを合体させたような世界を映画として見せてくれた、まさに名作映画中の名作映画と言えます。

 

映画「罪と罰」の監督として知られる、ジョルジュ・ランパンの「白痴」の感想はこちらでお読みください。

増村保造の映画「闇を横切れ」を見た感想

ネットで低価格で流出していたので、増村保造監督の「闇を横切れ」。

 

ラストまでノンストップ、観る者を飽きさせない演出は、さすがは増村監督だと思わせてくれます。

 

あまり話題にならない「闇を横切れ」も、良質なエンターテインメントと言って間違いありません。

 

闇を横切れ

 

1959年公開。監督は増村保造。

 

一本気な新聞記者を演じているのが川口浩、川口の上司を山村聰が好演している。

 

名匠・増村保造の没後20周年を記念し彼の代表作をDVD化。美人ストリッパーの絞殺死体の傍らに倒れていた革新党候補者。

連続殺人事件を追う新聞記者は、事件の背後に市長選挙を巡る陰謀が存在することに気付く。映画音楽を一切使用しないことも話題に(引用元:「キネマ旬報社」データベース)。

 

増村監督の映画はほとんどすべて観ていると思っていましたが、この作品は未見でした。

 

今回、鑑賞して感じたことは、スピーディーな展開、切れ味の良いセリフ回は、他の作品と同様に、際立っていますね。

 

増村フィルムの素晴らしさは、人物の描き方にあります。

 

特徴的なのは、カメラのアングルとセリフです。

 

映画作品の質を高めるには、どうしてもカメラマンの腕が必要になりますね。増村映画は、カメラアングルだけを観ても、決して飽きない味わいがあります。

 

セリグフは、増村の時代には、まだマシンガントークという言葉がなかったと思いますが、まさに、機関銃のように、矢継ぎ早に発せられる言葉の数々が、こちらの胸に響いてくるのです。

 

ドラマとは、人と人とが火花を散らすことだ、とある作家が言いましたが、増村監督の映画は、常に、人と人とが、激しくぶつかり合い、せめぎ合いつつ、ラストに向かって突進してゆきます。

 

増村映画の独特の緊張感は、単なるサスペンスの演出によって生み出されているのではなく、人間の描き方の深さ、人間への狂おしいほどの執着心が、観る者を真剣にさせずにはおかないからなのではないでしょうか。

 

増村監督の映画は、完成度にバラツキがあります。所属していた会社に商業性を強く要求されたせいだと思いますが、しかし、つまらない作品、意味のない映画は1本もありません。

 

どの作品にも、必ず何か新しい試みなり、映画監督としてのセンスの閃きを見せてくれます。

新藤兼人の映画「薮の中の黒猫 」を見た感想

何十年も前の映画を見ていると、名画と呼ばれる作品でも、かなり古びてしまっている部分がアダになって、その作品が好きになれなくなってしまうこともあります。

 

今回ご紹介する新藤兼人監督の「藪の中の黒猫」は、1968年の映画ですが、今見ても、古さをあまり感じ無い秀作です。

 

幻想的怪奇映画の名作といえば、すぐに思い浮かぶのが、溝口健二の「雨月物語ですよね。

 

この永遠の名作に迫る妖気を放つのが「藪の中の黒猫」。

 

怖さと美しさが錯綜する、魔的な世界が展開されます。

 

「藪の中の黒猫」

 

1968年公開。

監督:新藤兼人

出演:中村吉右衛門、乙羽信子、佐藤慶、太地喜和子

 

内容:民間伝承話に着想を得て新藤兼人が脚色し、同時に“性”の主題を追及したホラー映画。平安中期の京都、4人の落ち武者に暴行され家ごと焼かれた母娘が妖怪となって次々と復讐していく。TVドラマ『白い巨塔』の太地喜和子の妖艶な化け猫ぶりが見所(引用元:「キネマ旬報社」データベース)。

 

最後まで、充分に楽しめました。

 

しかし、贅沢かもしれませんが、鑑賞後、少し物足りなさが残りました。

 

その物足りなさとは何でしょうか?

 

物足りなさの理由は2つあるように思われます。

 

1つ目は、もっと耽美的につくってほしいと感じたのです。

 

もちろん、新藤兼人は耽美派ではないから、そういうものを望んではいけないのかもしれないけれども、もしも、この映画がもっと美的に仕上がっていたとしたら、名作映画として、もっと声高に語り継がれる気がしました。

 

2つ目は、シナリオがやや弱い。

 

最後、男が狂うのですが、狂った動機が弱い気がしました。化猫が男を襲う必然性も薄いと思います。

 

ですから、ラストシーンまでの迫力あるシーンへの感情移入が、今ひとつできなかったのです。

 

ただ、見ごたえのある場面は多数ありますので、繰り返しになりますが、最後まで、退屈するようなことは決してありません。

 

新藤監督の異色作ですが、語り継がれてゆくべきというか、忘れ去られるには惜しい秀作というべきでしょうか。