読みたい時に、本はなし。こんな辛い思いを何回繰り返せば良いのでしょうか。

 

前回の記事「二人が睦まじくいるためには(吉野弘「祝婚歌」)」で、少し触れた吉野弘の詩のタイトルが判明しました。「争う」です。

 

この詩は、私の持っている「続・吉野弘詩集 (現代詩文庫)に収められているはずです。上の詩「争う」を読みたくて、買った記憶がありますから。

 

しかし、先ほどから探しているのに、この詩集が見つかりません。

悔しい。読みたい、肝心な時に、その本がないことほど、悔しいことはありません。

 

仕方がないとあきらめ、アマゾンで注文しました。現代詩文庫は読みづらいため、たぶん、こちらの方にも収録されていると思いますので、こちらを注文⇒吉野弘詩集 (ハルキ文庫)

 

では、「争う」の全文を引用してみます。

 

 

争う

 

 

青空を仰いでごらん。
青が争っている。
あのひしめきが
静かさというもの。

 

 

流れる水は
いつも自分と争っている。
それが浄化のダイナミックス。
溜り水の透明は
沈殿物の上澄み、紛いの清浄。

河をせきとめたダム
その水は澄んで死ぬ。
ダムの安逸から放たれてくる水は
土地を肥やす力がないと
農に携わる人々が嘆くそうな

 

 

「静」とう文字は「青」と「争」とでできている。「浄」という文字は、さんずい、つまり「水」と「争う」でできている。その意味を解釈し、それが詩になってしまっているという「言葉の事件」を起こしています。

 

山田太一の人気ドラマ「ふぞろしの林檎たちⅣ」で、看護婦役の手塚理美が、末期がんの患者を愛してしまう。その患者に、吉野弘の「争う」を朗読するというシーン。

 

この場面を見た時、「争う」という詩の世界に、一瞬のうちに吸い込まれてしまいました。

 

ただ、詩集を注文して、本が届いた時には、感動は弱まっていて、ドラマで朗読された時ほどの強い感銘はよみがえらなかったのです。

 

今回、ネットで検索して、読み返してみますと、新たな発見があり、みなぎるような感動を味わえました。

 

感動が消えてしまいそうなので、あえて解釈とかは載せません。争っているから、生きているのだし、輝ける、そのことは肝に銘じたい、そう強く思いました。

 

最後に吉野弘自身が「争う」について語っているので、その文章を引用いたします。引用元は「くらしとことば」です。

 

「青が争う」となぜ「静」なんだろうと思われるかもしれない。確かに「争い」が「静かさ」をつくり出すなんて理屈に合わない。

 

それで私は、青空を仰いでごらんとだけ云いたい。そこには、青が争っていないだろうか。青がひしめきあっていないだろうか。青が渦巻いていないだろうか、そしてそれが、張りつめた静かさとして、空に満ち満ちているのではないだろうか。

 

空の青さは、決して青ペンキをぬった一枚の板ではない。底知れぬ深さをもち、嵐の海のようにひしめきあい、争うことで、あの美しい青さをつくり出している。

 

波立っている海も、高い上空から見下ろすと一枚の青い鏡である。空の青さも同じ理屈なのではあるまいか。

 

私は青空を仰ぐたびに「ああ 青が争っている」と思う。

 

「静かだなあ」と思う。そして、「静」という文字をつくづく、うまく出来ている文字だなあと思う。