宮澤章二の「行為の意味―青春前期のきみたちに」という書籍の存在をご存知でしょうか。
東日本大震災が起きた後、民放各局が企業のCM放送を自粛する中、ひんぱんに流されたACのテレビCMのために、にわかに注目を集めた宮澤章二の詩集です。
それにしても、メディアの力は凄いですね。この奇異なブームによって、宮澤章二という名前を初めて知った人も多いのではないでしょうか。それに加えて、宮澤章二の詩集がかなり売れているというから驚きです。
「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」という金子みすゞの詩集についても、全く同じことが言えます。
これがその話題となったACのテレビCM。
「こころ」は
だれにも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は
見えないけれど
「思いやり」は
だれにでも見える
ここまで有名になっても、その全文は意外と知られていないので、あえて「行為の意味」という詩の全文を引用してみます。
行為の意味
……あなたの<こころ>はどんな形ですか
と ひとに聞かれても答えようがない
自分にも他人にも<こころ>は見えない
けれど ほんとうに見えないのであろうか
確かに<こころ>はだれにも見えない
けれど<こころづかい>は見えるのだ
それは 人に対する積極的な行為だから
同じように胸の中の<思い>は見えない
けれど<思いやり>はだれにでも見える
それも人に対する積極的な行為だから
あたたかい心が あたたかい行為になり
やさしい思いが やさしい行為になるとき
<心>も<思い>も 初めて美しく生きる
……それは 人が人として生きることだ
「行為の意味」という一篇の詩だけでなく、この詩集を読んだ時、戸惑いを禁じ得なかったのは、私一人だけではないでしょう。
詩と呼ぶには、あまりにも表現が率直すぎる。
若者たちへのメッセージだということですが、日常生活の中で読んでも、記憶に残らないのではないかと思うほど、当たり前なことが書かれているのです。
大震災の後という異常な状況だからこそ、当たり前な言葉が、尊い光のように感じられるのかもしれません。
詩の芸術として自律性、独自の卓越した修辞学、研ぎ澄まされた美意識などに、これほど無縁な詩集を私は読んだことがありません。
詩集「行為の意味」には、詩人にありがちな「言葉による表現への偏愛」はなかったのです。
この書籍におさめられた言葉の連なりは、詩というよりも、きわめて倫理的な人間賛歌と呼んだ方が、良いのではと思われました。
倫理的という意味は、「生きるという行為」に直結していることを指します。
「行為の意味」とは「どのように生きるべきか」ということに他なりません。
では、「行為の意味」という本は、詩集ではないかというと、そうではなく、「生きること」に力強くつながる、極めて貴重な詩であり、現代には、こういう詩こそ強く求められると感じた次第です。
今という難しい時代には、装飾された言葉よりも、素直で生命感のある真実の言葉の方が必要なのではないでしょうか。
大切なのは、こういう本は、先入観をすべて捨てて読むこと。
心を空しくして、その世界に没入することだと思います。
しかし、胸を打つ詩は、どうして現代詩の流れから逸脱しているものばかりなのか。
今私には、現代詩の歴史には何の興味もありません。詩集から「生きること」を力強く促す、温かい肉声が聞こえていること、それだけで充分にありがたいのです。
世間的な評価は、これからだと思います。ただ、その余りに倫理的かつ道徳的な詩的世界は、私たちにとって充分な驚きであったことは間違いありません。
その驚きが、浸透するか、忘れ去られるか、それについては、もう少し様子をみるしかないでしょう。
宮澤章二の詩を取り上げていただきありがとうございます。2013年1月23日。羽生市立三田ケ谷小学校の空き教室を利用し、宮澤章二記念館がオープンしました。是非一度おいでください。