沖縄のジャンヌダルクと呼ばれる、我那覇真子(がなはまさこ)が「母性に捧ぐ」という桜沢如一(さくらざわゆきかず)の詩を、講演で紹介されていました。

 

たいへん印象深い詩でしたので、ご紹介することにします。

 

かなり長いのですが、作者の熱い思いが伝わってくるので、読んでいるうつにのめりこんでしました。

 

母性に捧ぐ

 

すべての偉大なる人物は
母から生れ
母の手に育てられる!
ゲーテよりもゲーテの母!
野口英世よりも野口英世の母!
乃木希典よりも乃木希典の母!
近江聖人よりも藤太郎の母!
孟子よりも孟子の母!
エジソンの母!

すべての偉大なる人々より
かれらのかくれた母を
私は尊敬する
すべての偉大なる人々の母は
その電機はおろか、
一日の生活のはしくれさえ
完全には知られていない!

すべての偉大なる母は
全くかくれている
歴史も歴史家も、
偉大なる人々について
ことこまかに
おしゃべりするけれど
ああ、その母については
何も知らぬ

 

偉大なる母性は
偉大なる人々を生み、
かつ育て
着せ、かつ養い、教え
しかもその苦労と
悲しみを何人にも語らない
ましてやその子について
誇るところは微塵もない
ただ涙をたたえて
ただ鼻をつまらせて
大きくなった我が子の
ふるまいを見つめているばかりだ

そのふるまいの偉大、勇敢、忍耐
その壮烈なる自爆決死的精神を
知らぬではないが
それよりも
寒い夜抱いて寝たわが子
暑い日背にくくりつけて
遠い道をあるいたわが子
いとけなき日のわが子
赤ン坊時代のわが子
始めて身に宿った日の
わが子の思い出が
眼の底に
焼きつけられているので
成人したわが子の
勇敢無双な姿や
不抜の忍耐力を
目のあたりに見ても
夢を見るようで
ただ涙で眼がくもり、
鼻がつまり
その涙の中には、
幼い日のわが子の姿が
まぼろしに二重写しになって
何も言えなくなるのだ

偉大なる人物は
より偉大なる母の傑作だ!
母は彫刻家だ
冷たい石の塊や、
固い木にしがみつき、
かじりつき
あけてもくれても
コツコツ、黙々として彫み、
みがきあげ
寝食をわすれ、我を忘れ
疲れ、やつれ、苦しみ
時としては、
衣類や身の飾りを質札にかえ
冷たい石ころや固い木ぎれに
自分の命を注ぎこみ
自分の地をかよわせ
ついにりっぱな作品に
造り上げる
その出来ばえを、
いかにほめちぎる人があっても
どうしてそんな言葉が
耳に入ろう!
その作品に名誉の金牌が
ささげたれても
どうしてそんなもので
心がおどろう!
母の彫刻家の血と魂、生命は
もう冷たい石ころ、
木ぎれに移っている!

母はむくろだ
母はもう生ける屍だ
ただ、うっとり、
自分の身と塊をこめた
作品をだまって
ながめているばかりだ!
その沈黙は謙遜でもなければ
まして満足でもない!
それはどんな言葉でも表せない
それは、いやそれこそ
無私の心境である
無我の境、
いや無それ自身
我もなく、彼もない無の世界
いや宇宙全体にひろがる心
精神、神!
『女は弱し、されど母は強し!』
母は神である!
母は偉大な人々を生み
母は偉大な人々を育て
母は文明を生み
母は健康をもたらし
母は人類の幸福を生む!

 

しかし、母ならざる母

弱き母、健康ならざる母は
悪人を生み、罪をまきちらし
不幸と病弱をもって
人類と文明を暗くする!
母は人類のかくれたる
指導者である!
人類の真の指導者は母である!

指導者はすべての母の心を持て!
母は勇気と、忍耐と
注意と、記憶と、謙遜と
愛と犠牲の源泉である
母はまず健康であらねばならず
母はまず健康の原理を
体得せねばならない

「新しい栄養学」(1941年)より

 

我那覇真子は、保守の活動家として有名です。まだ20代なのですが、現代の日本の平均的な若い女性とは、感性も生き方もまるで違っています。

 

沖縄に生まれ育ち、今もなお沖縄に在住されていることも影響しているのでしょう。

 

家族の絆、親子の愛情を極めて大切にしていることが、彼女のいろんな発言からわかります。

 

桜沢如一の詩を紹介してくれている講演は、YouTubeで聴けます。

 

 

桜沢如一という人を初めて知りました。詩人ではなく、マクロビオティック(食養)の提唱者です。マクロビオティックを日本、北米、中南米、欧州、インド、アフリカ、ベトナムに広めました。海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られています。

 

母親の愛情をテーマにした詩は、あるようでなかなかないですね。高村光太郎に良い詩がありましたが、桜沢如一の「母に捧ぐ」ほど真正面から、「母という存在」を朗々と歌った詩は、他にはないと思います。

 

詩人が書いた詩ではないので、荒削りなところがありますが、情熱の純粋さが半端ないので、感動を禁じ得ません。