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みんなちがって、みんないい~金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」

みんなちがって、みんないい」というフレーズで有名な金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」をご紹介します。

 

さっそく、引用してみましょう。引用元は「金子みすゞ名詩集(彩図社)」

 

私と小鳥と鈴と

 

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。

 

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

 

【動画】(詩の朗読)金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」

 

金子みすゞの詩が優れている理由

 

詩というと、一般人には計り知れない深淵な真実が暗示的に表現されている、だから、なかなか理解できない、と思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。

 

いえいえ、詩はわかりやすいほうがよいのです。

 

もちろん、わかりやすいだけでは不充分であって、わかりやすくて深いのが優れた詩というべきでしょう。

 

物事の本質や人生の真実を、ふだんの生活で使う言葉(日常語)で、簡明に伝えてくれるのが、優秀な詩の特長です。

 

本物の詩作品は「こんなに深いことを、こんなにわかりやすく表現できるなんて!」という驚きを与えてくれます。

 

その逆に、大して主張したいこともないのに、立派に見せようと理屈をこねくりまわし、その結果、難しくなってしまっているのが駄作です。

 

「私と小鳥と鈴と」のテーマと魅力

 

では、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」は、どうでしょう。

 

これほど、解説が必要のない詩は珍しい。誰でも理解できるし、誤読のしようがない作品です。

 

「私と小鳥と鈴と」のテーマは、最近よく使われる言葉でいうなら「多様性」となるでしょう。

 

「多様性」をWikipediaは以下のように説明しています。

 

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。 英語の多様性"diversity"の語源は、ラテン語ではdiverstiasに求められ、この言葉は、最初には、一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致、といった消極的な意味を有したが、第二義的に、相違、多様、様々な形になる、という意味も併せ持っていた。17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のニュアンスになったとされている。

 

この説明書きを読んで、サクサクっと理解できる人は多くはないでしょう。

 

実はこの「多様性」という言葉は、政治の世界でもひんぱんに使われているのです。

 

私は政治系の動画サイトを運営しているのですが、政治の世界では「多様性」などの定義が難しい(安直に定義してはいけない)言葉が、乱用されています。また、ダイバーシティ、ジェンダー、ガバナンス、エビデンスなどのカタカナ言葉が飛び交っており、言葉の使い方に苦慮せざるをえません。

 

SDGs(エス・ディー・ジーズ)は「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称ですが、あたかも誰もが知っている(当然受け入れられるべき)言葉として報道されているふしがあるのですが、それは言葉を専門的に扱うプロ集団であるはずのマスコミとしては、本来恥ずべきことなのです。

 

マスコミは、一般人に無理なくわかるように、報道しなければなりません。

 

番組のコメンテーターたちは、独りよがりかもしれない専門用語を、早口でしゃべるのが知性の証しだと勘違いしているみたいです。

 

言葉に対する感覚が、滅茶滅茶。「語感」ができあがっていない(言葉の意味が自然に感覚としてわかるに至っていない未成熟な)言葉が、狭い業界で使われるのは致し方ないでしょう。

 

しかし、「語感」ができあがっていない(言葉の意味が自然に感覚としてわかるに至っていない、時には、独善的で押しつけがましいとさえ感じる概念語)を、マスコミや言論人が、したり顔で使っているのは、愚かであり、情けない。

 

また、そういう言葉への配慮不足に「言葉はわれわれのような特権階級が勝手に造語して自由に使うから、大衆はそれをそのまま受け入れればいい」という、大衆蔑視と思い上がりを感じるのです。

 

困ったことに、そういう言葉が(一般人に普通に受け入れられるものとして)、日々、無頓着にマスコミから報道されるので、一般の人たちは混乱し、受けなくてもいい負担を強いられているわけです。

 

専門の言論人や表現者は、難しいことでも、わかりやすく伝える義務があり、それができなければ、努力か能力が不足していると言われても仕方がありません。

 

それに比べ、金子みすゞの詩には難しい言葉は使われていないけれど、わかりやすく、そしてなおかつ、そこには、この世界の真実、人間にとって実に切実なテーマが表出されており、感動を禁じえません。

 

話を「多様性」という言葉に戻しましょう。

 

「多様性」と言う時に、すべてのものは異なっているのは当然ですが、その相違を積極的に認めるという意志に近いニュアンスを含めることが大事です。

 

「みんなちがってみんないい」と金子みすゞが言うように、違っていて良いのだし、違っているからこそ、より豊かな世界を作る可能性が広がるというふうに、「違い」を積極的に歓迎すべきでしょう。

 

みんなちがってみんないい」という『私と小鳥と鈴と』の中の一節は、政治用語である、ダイバーシティや多様性よりも、ずっと多くの人々に響くのではないでしょうか。

 

政治の世界では、自分と異なる意見を排除しようとする人が少なくありません。議論の前提として「お互いの違いを認める」ことが大事なのですが、このコミュニケーションの基本を知らない人が多いのです。

 

政治の世界では「分断」がつきものにようになっています。右と左、保守とリベラル、上流と下流などなど……。意見が異なるグループが存在し、お互いを批判し、分断という深い溝は埋まる気配さえ見えません。

 

世の中を自分たちの都合のいいようにコントロールするために、工作として「分断」を起こす場合もあるのです。

 

大事なのは、対話(コミュニケーション)です。二つに分かれていることは不幸にも見えますが、実はお互いをより深く知るチャンスでもあります。

 

意見が異なるのは、それ自体は悪いことではありません。異なることで、相手を過度に憎んだり、誹謗中傷を浴びせたりするのが悪いのです。

 

意見が対立していても、対話を粘り強くすることで、AとBのステージにとどまっていた意見が、Cというより高く、豊かなステージに到達できるかもしれないのです。

 

最初からみんな同じ意見ならば、より高く豊かなステージを目指すことさえしないでしょう。

 

私はこれまで何回ともなく、分断を解消するための対話の必要性を説いてきました。しかし、なかなか実現しません。

 

お互いの違いを認め合い、違いを生かして、より豊かな世界を実現しましょう……となるためには、技術論や方法論ではなく、人間への大きな愛が必要だと最近、痛感するようになりました。

 

「異なることを認め合う豊かな世界」を、金子みすゞが詩によって豊かに表現してくれました。

 

どうして、それができたのか?

 

金子みすゞが、詩の名人だからではありません。

 

金子みすゞの純粋で大きな愛が、尊い気づきを、私たちに与えてくれているのだと私は思います。

 

心という眼に見えないものに、形を与えて、鮮明に示してくれるのが「詩」

 

それにしても、金子みすゞの詩は、良いですね。どこが、どのように良いのかについて語ろうとすれば、金子みすゞ論になるのかもしれません。

 

ここでは、一点に絞ってお伝えすることにします。

 

心は眼に見えません。他人の心も、自分の心も見えないから、不安になります。

 

この眼には見えない心を、誇張も、歪みも、虚飾もなしに、心のあるがままの姿を、形にすることは容易ではありませんが、それを詩という形で示してくれたのが、金子みすゞなのです。

 

だから、金子みすゞの詩を読むと、救われた気持ちになるのでしょう。

 

詩を書いたことがある人ならばわかると思います。ともすれば、格好よく見せようとしたり、背伸びをしたり、「あるがままの心の姿」とはかけ離れたものになりがちです。

 

金子みすゞが、言葉を飾らないのには理由があって、装飾を加えた途端に、真実がするりと抜け落ちてしまうので、限界まで表現を単純にしているのだと思います。

 

それは「裸の心」というべきか、あるいは「心の裸形」というべきか。はたまた「あるがままの心」というべきか……。

 

装飾のほかに、金子みすゞが避けたものがあります。それは「概念的な説明」です。

 

不思議なことに、真実は説明しようとすると、知らぬ間に見えなくなってしまう。だから、金子みすゞは、比喩や擬人化によって、眼には見えない心の姿に形を与えようとしたのでしょう。

 

私たちは日常生活や仕事において、説明して相手をわからせようとしがち。でも、説明してもわからないことの方が大事な場合が多いのです。

 

そういう時は、金子みすゞの詩を想い出し、「概念的な説明」ではない方法で、伝えたいことを伝えるように、工夫すれば、対話のステージは上がると思われます。

 

金子みすゞの詩は、風花まどか大学の教科書…

 

「風花まどか大学」の「まどか学」と「詩学」は、金子みすゞのポエジー(詩精神)が根底に息づいています。

 

風花まどか大学の詳細はこちらに

 

金子みすゞのその他の詩はこちらに

詩心回帰の超詳しいご説明ページです。

これまで「詩心革命」という言葉を使ってきましたが「革命」という言葉に抵抗があり、今一つ馴染めないので、今後は「詩心回帰(しごころかいき)」と呼ぶことにしました。

 

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詩心回帰という言葉の意味は?

 

「詩心回帰」という表現は、ベルグソンの「創造的進化」、ドストエフスキーの「永久調和」、ニーチェの「永劫回帰」に通じる、心(生命の根源)が極めて高い次元で満たされている創造的な状態を暗示。

 

まあ実は、それほど大げさに堅苦しく考えていただかなくても良くて(苦笑)、「詩心」に「回帰」すると、とっても良いことが起きる、いろんな方面でどんどんとプラスの連鎖が広がってゆく、ただそれだけのこと。

 

誰もが本来持っている「詩心」を取り戻し、「詩心」の良いところを存分に活用すれば、社会も日々の暮らしも豊かになる……だから何をするにも(政治・仕事・生活などすべておいて)「詩心」という永遠不滅のアプリを起動させた状態で行うようにしましょう、というのが「詩心回帰」の切なる訴えなのです。

 

ところで、私が政治や社会問題を「詩心」とつなげて語る、と申し上げたら、あなたは戸惑いますか?

 

なぜ、国民の半分が、選挙に行かないのか?

 

国民のおよそ半分は、選挙に行かないと現実があります。

 

選挙に行きましょう、と何度も呼びかけても、一向に投票率はあがりません。

 

では、どうしたら、投票率をあげられるのか?

 

多くの国民は、政治に対し、嫌悪感をとおりこして、恨み、憎しみさえ抱いている気がしてなりません。

 

政治なんかのために、1分1秒でも無駄にしたくないという思いが強く、心に分厚い壁を作っているのではないしょうか。

 

この「心の壁」を取り払わないかぎり、投票率は上がらないと私は考えています。 この記事の続きを読む

河井酔茗の詩「ゆずり葉」

今回は、河井醉茗かわいすいめい)の「ゆずり葉」という詩をご紹介します。

 

【動画】(詩の朗読と鑑賞)河井醉茗「ゆずり葉」

 

 

ゆずり葉

 

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

 

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

 

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

 

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

 

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

 

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

 

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

 

河井醉茗は、1874年(明治7年)5月7日 に生まれ、 1965年(昭和40年)1月17日に没。日本の詩人。

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