雪の日の訪問者

東京の高円寺は、昨日からの雪で、あたりはまだ真っ白です。

昨日、ようやく、新しい電子書籍の出版にこぎつけたこともあって、最近は仕事に追いまくられっぱなし。

あわただしく過ぎてゆく時間を止めてくれたは、真っ白な雪でした。

 

雪はめったに降らないので、白いものが舞ってくると、何か不思議なことが起きるのではないか、

そんな胸騒ぎがすることって、ありませんか。

実は昨日、2月14日に、本当に不思議な出来事があったのです。

 

夕暮れ時に、ドアホンが鳴りました。めったに私の部屋には訪問客はありません。

来るとしたら、新聞の勧誘か、それとも……

急いでドアを開けると、そこには、雪で真っ白になった宅配の配達員が立っていました。

しかし、荷物が届く予定は思い当たらず、何だろうかと、印鑑を押してドアを閉めてから、

包みを開けようとしたですが、明かりの消えた部屋は暗すぎるので、バルコニーに出ました。

雪明かりに照らし出されたものは……

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そう、今日はバレンタインデー、でした。

しかに、荷物には差出人の名がありません。

呆然として、私は寒さも忘れ、美しい小箱を持ったまま天空をあおぎ、

雪の音を聞いているしかできませんでした。

 

一夜明け、ふと、こう想ったのです。

ひょっとして、妖精がチョコレートに姿変えて、私のもとを訪れたのではないか。

妖精の名は、ひょっとすると「初芽(はつめ)」?

「風花初芽」は、私の新作の書名です。偶然ですが、発売日がバレンタインデーと重なったのでした。

 

2月14日。雪の日の突然の訪問者。

窓の外を眺めると、妖精の影が動くような気がして……。

1日過ぎた今日も、その愛らしいリボンを、まだ解けないままでいます。

大雪で高円寺の駅前は?

今朝からずっと大雪が降っています。

 

私が住んでいるのは、東京都杉並区高円寺。

 

食事をするために、部屋から最も近い、定食が食べられるところに行きました。最近、よく行く「ぽれやぁれ」というカフェなんですが。

 

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上の小さなお椀は、甘酒ですよ。どろっとした、あづき入りの甘酒。この店で、ゆったりしていると、しばし、大雪のことは忘れそうになるのですが、外に出たら、とんでもないことになっていました。

 

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で、私が今回書きたいのは、大雪で大変だった、ということではありません。用事があって、高円寺駅前まで出たのですが、駅前はどうなっていたかというと、いつもより、人が多いくらいでした。

 

しかも、若者たちだけでなく、老若男女を問わず、街中は活気にあふれていたのでした。

 

う~ん、これが、高円寺の神髄ですね。雨だろうが、雪だろうが、ためらいもなく、街を多くの人たちが闊歩している、人口異常密集地帯、それが「高円寺」という街の凄さです。

 

そんな高円寺に住めるようになって、私は幸せ者ですよ。人が元気な街、人があふれている街が、大好きなので。

映画「風の中の牝鶏」に小津安二郎のライフテーマを見た。

小津安二郎の作品を珍しく、続けて見ました。今回は田中絹代が主演した「風の中の牝鶏」です。 

 

古い映画です。小津安二郎の戦後2作目だとか。

 

確かに、戦後女性の苦しい立場が描かれていました。

 

だからといって、小津美学から逸脱した映画かというと、決してそうではありません。

 

逸脱どころか、私はこの「風の中の牝鶏」を見て、初めて小津安二郎監督が映画で何を表現しようとしたのかが、ハッキリとわりました。

 

この作品だけでなく、全作品で小津が表現したかったことは、おそらくはすべて同じです。

 

それはどういうことかと言いますと、こういうことではないでしょうか。

 

人間というものは本来は狡くて卑しいものであり、人間界はドロドロしていていて息苦しいものである。だからこそ、自分(小津安二郎)は、人間の中の奥底にある、清き泉から、聖なる水をすくい上げたい。

 

弦楽器の弦をかき鳴らすように懸命に、人間の中にかろうじて流れている、気高き血を絞り出したい。

 

小津監督は、上のことをしたいがために、永遠の名コンビとなった、笠智衆原節子に崇高な調べを演奏させたのです。

 

笠智衆と原節子の二重奏を聴くと、心洗われるのは、俗悪な人間界では考えれないほど澄んだ聖水を飲んでいるかのように感じるからです。

 

要するに、現実世界では絶望的なまでに希少である、純なる人の美しさを、精妙な手つきで、小津は掬い上げ、人の魂を救うことに成功したのです。

 

世の中は濁流。人の心はどぶ川です。清いものは、瞬く間に、濁った流れに飲み込まれてしまいます。だから、この世ははかないのですが、それでは人が生きる甲斐がない。

 

そのために、笠智衆と原節子という名コンビを生み出すことで、小津安二郎は、宗教音楽を奏でるように、哀しき浄福の世界を描き出したのだと思われるのです。

 

繰り返します。「風の中の牝鶏」を見て、私は小津安二郎が、人間の中にかろうじて残っている聖なるものを、必死で絞り出そうとしている姿が、くっきりと見えたのでした。