「慟哭(どうこく)」という魂の日本語

2011年、あの大震災があった年。私は3回の手術をして、死にかけました。病気そのものは重篤ではないのですが、大量出血で2度も失神してしまったのです。

 

退院してから、驚いたのは、自分の感覚が異様になってしまったこと。ある曲を聴くと、涙がとまらなくなる。何度も繰り返し聞いても、飽きることもなく、涙も止まらない。

 

感覚が異常に研ぎ澄まされていたとか、感傷的になっていたとか、そういう表現ではとても表せない「ある変化」が私に起きていたのです。

 

一言で申しますと、あの時、私は初めて「魂」の存在を知ったのでしょう。その魂から、何か得たいの知れないものが、毎日、吹きあげてくる。

 

まず最初に吹き上げてきたのが「歌」だった。言葉つきの楽曲。その歌は、日本語では歌われていないのだけれども、テーマは、すぐにわかりました。

 

それは「慟哭(どうこく)」。

 

「慟哭」は大辞林で引きますと「悲しみのために、声をあげて激しく泣くこと。哭慟」と出ていました。

 

あの時私は少し違って、声を出さずに、大声で泣いていたのです。それも「慟哭」でしょう。

 

何とか、死の淵から生還した私だったけれど、未来への希望はなく、自分の魂の底に沈んでいたものを、ひたすら汲み上げようとしていた、と今になってみて初めて冷静に語ることができます。

 

あの時期、私は精神的にも病んでいたのかというと、むしろ、逆です。あの時こそ、魂から慟哭の歌をうたいつつも、生きることに関しては、極めて健全な状態であったと確信しています。

 

つまり、生命の保存という肉体的本能が活性化していたというより、心と体が一体となって、生きようと燃えていたのだと思うのです。

 

闇の中にいたけれど、不安はありませんでした。ただ哀しく、涙は尽きないけれど、これではいけないとは思わなかったのです。

 

なぜか、満たされていた。今は、泣きたい時なのだから、涙がかれるまで、泣きつくしてしまうとしていました。自分の哀しみに忠実であろうとしていたと言った方が当たっているかもしれません。

 

なぜ、私はあんなに哀しかったのか。死ななかったのだから、歓べばいいし、未来に希望を抱くべきなのに、暗い闇の底ばかり見つめていた。

 

今思うと、真っ暗ではなく、闇の中に、激しくゆらめくものを見ていた気がします。

 

深い淵から、音とも言葉ともつかないものが、溢れだしてきたのですが、なぜか、私はそれを詩にしたり、物語にしたりしませんでした。

 

おそらくは、私は自分の内面という井戸の底を見つめていたのですが、と同時に、私の体を流れる日本語を語る日本人の血統を、日本人の魂の嗚咽を聞き出そうとしていたのかもしれません。

 

「魂」、そして「慟哭」。この2つの言葉から生まれたのが、「言響(こだま)プロジェクト」です。

 

表の顔は「文章の書き方入門講座」ですが、裏の顔は「魂の言葉を呼び戻す作業」でした。

 

そして、2012年の冬、原発再稼働のように、本格的な経済活動(社会復帰作業)を開始。経済活動には、必ず、光と闇が存在します。残酷な営みという側面がつきまといます。

 

でも、その経済活動においても、退院して音楽を聴きながら、泣き続けていた頃の感覚。魂と直結した言葉の横溢を忘れてならないと覚悟しています。

 

「慟哭」という魂の日本語を、絶対に忘れてしまいたくありません。

市川美余は崖っぷちのカーリングを救える?

もう、スポーツに飽き飽きしているのですが、唯一、マイナーなカーリング女子を応援しています。

一時はプチブームであったカーリングですが、実力がともなわずに、人気は下降ぎみ。そんな下火のカーリングの救世主として期待されているのが、美しすぎるカー娘こと市川美余(23)。

18日開幕のカーリングのアジア・パシフィック選手権(ニュージーランド)に出場する男女の日本代表(男子=SC軽井沢クラブ、女子=中部電力)が15日、都内で会見しました。

このアジア・パシフィック選手権で2位以内に入り、来年3月の世界選手権(ラトビア)への出場権を得なければ、ソチ五輪は絶望。市川美余は「崖っぷちの状態。ここで負けたら後がないという強い気持ちで臨みたい」と力強く話したそうです。(情報元:nikkansports.com)

実力的にエースと言うべきは、スキップの藤澤五月でしょうけれど、何しろ市川美余は話題性があるわけで。

サッカーのなでしこジャパンがメジャーになり過ぎた感があるので、ここはカーリング女子に頑張ってもらって、ソチ五輪の出場権利を獲得してもらいたいものです。

ただ、テレビ放送は見られないと思うので、ただひたすら、勝ちを願うしかありません。

 

サッカーが面白くなくなっている件について

サッカーは子供の頃から大好きで、日本代表の試合は欠かさずテレビ観戦してきました。しかし、最近、サッカーが面白くなくなってきて困っています。

先日、19歳以下の日本代表が3大会連続で本大会への出場権を得られえませんでした。

逆に、フル代表の方は、ハラハラすることもなく、予選を戦っていて、盛り上がりに欠けます。

あれほど感情移入できたフィギュアスケートも見る気がなくなっているし……。

ふと思ったのですが、もう、スポーツ観戦はやめようかなと。時代がどんどん窮迫してきて、それだけに娯楽となるのは、スポーツが主体となるのは当然の流れかもしれません。

企業がマスコミと結託して消費をあおり続けるけれど、今の時点で、もう、マスコミの仕掛けに乗っからないことを考えた方が良いと思うのです。

私はもともとミーハーだから、これまで、テレビ、雑誌、新聞、単行本などに、乗せられっぱなしできたけれど、さすがにもう、うんざりしてきました。

これだけ、商業主義が浸透しまくると、採算どがえしの試みとか、金銭を目当てではない崇高な志が息づいた作品みたいなものが出てきません。

目先の利益を追うものではない、深くて、気高いものを享受するからこそ、明日への勇気がわいてくるのですが、これだけ目先の利益だけを求め、人は使い捨て、物は買い替えばかりを推奨し、そういう流れから、離れてしまわないと、もう本当にダメなような気がしてきたのです。

消費する時代から、語り継ぐ時代へ。

愚痴とかはこぼしている時間ももったいない。だから、自分で意識的に、マスコミを遮断して、一過性の消費で終わるものではない、繰り返し味わえる、人の糧となるものにだけ接し、できればそういう良質なものを生み出してゆきたいのです。

サッカーの話でしたね(苦笑)。サッカーがいけないわけではなくて、スポーツへの熱狂が、結果として「すり替え」というワナにはまっているだけだとしたら、もう、スポーツに対し、警戒心を持つのも良いことでしょうね。

スポーツ観戦でストレス解消では、情けない気がしてきました。以前は、スポーツから勇気をもらっていると感じていたはずなのに。スポーツは自分で体を動かし、体力づくりをしたり、精神的にリフレッシュする方が、健康的だと思い始めている自分がここにいる(苦笑)。

何でも、のめり込みやすい性格だけに、もともとスポーツが大好きなだけに、スポーツ観戦を自粛しようと、真剣に考え始めているのであります。