大西つねき氏と原一男氏が、YouTubeで対談しているのを見て、ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」を鑑賞した。
この映画は前からもちろん知っていたし、レンタルショップで借りたこともあるのだが、なぜか最後まで見たことがなかった、あるいは、最後まで見たのかもしれないが、印象に残っていなかった。
おそらくは、映像から立ちのぼってくる雰囲気が、当時の私には合わなかったからだろう。
今回見てみて、もっと前に見るべきだったとは思わなかった。
若い時に見ても、受け入れることはできなかっただろう。
真実は一つであらねばならぬと思っている頃、また物事は視点の角度によってまるで異なって見えるということを理解していない時期に見ても、偏った評価しかできなかったに違いない。
この映画の主人公である、奥崎謙三氏の思想や生き方について、いろいろ考えさせられたが、それよりも、映像作家である原一男氏の手腕の方が気になった。
実に、面白い映像作品になっているからだ。
ドキュメンタリーなのに、エンターテイメントのように楽しめる。
登場人物に歌を唄させたり、主人公の暴力シーンの撮り方、主人公の会話の抑揚、表情の追い方は絶妙である。
ドキュメンタリーだから、視聴者に投げかける問題が極めて重要なはずだが、それよりも何よりも、理屈抜きに、映画を楽しんでしまうのである。不謹慎なくらい、面白がってしまうのだ。
提起された問題は、人肉食、戦争犯罪、天皇の戦争責任、戦争の総括、戦後の価値観などだが、どれも重く深刻である。
つくづく思うのだが、重要な問題は、すべて意見が真っ二つに分かれてしまう。
重要な問題が厄介なのは、意見が分かれるだけでなく、結論が出ないことだ。
正解がない、それが正解だというしかない、それほど、暗く、底が見えないほど深い。
奥崎謙三氏の怒りの源泉は「まやかしの戦後の否定」にあり、それは三島由紀夫氏が起こした「三島事件」に通じるが、奥崎氏と三島氏の天皇観は真逆である。
⇒三島由紀夫・山本周五郎・山本太郎を、比較して見えてきたこと
大西つねき氏と語っている原一男氏が妙に明るいのが意外だった。そして「エンターテイメント」という言葉が原一男氏の口から出たことに驚いた。
映像作品を見ればわかるとおり、原一男氏は、映像を面白く見せる達人なのである。
「全身小説家」という映画をかつて見て唖然とした記憶が、今も鮮やかにある。
あの埴谷雄高氏まで登場させながら、半分ギャクで主人公の小説家・井上光晴氏を撮っていたので、口あんぐりになってしまったのだ。
これで、納得できる。原一男氏は、深刻な思想家タイプではなく、ユーモアのある、自ら面白がることが好きで、視聴者を面白がらせるのが好きなエンターティナーなのである。
ユーモアのセンスのある人は、対象(登場人物)との距離の取り方が巧みだ。
奥崎謙三氏という極めて特異な人物に、寄り過ぎず、かといって離れ過ぎず、ほど良い距離で追いかける、原一男氏のセンスの良さには舌を巻かざるを得なかった。
人物との距離感が、ドキュメンタリー映画の生命線なのだ。
深刻なテーマを追求しつつ、常に遊び心を失わないところに、原一男監督という映像作家の真骨頂があると確信した。