言葉には意味があるだけでなく、肌ざわりとでもいうべきものがある、と彼は子供のころから考えていた。

 

この「彼」とは、ロバート・キンケイドのこと。ロバート・キンケイドとは、あまりにも有名なベストセラー小説「マディソン郡の橋」の主人公であるカメラマンの名前です。

 

大学教授のロバート・ジェームズ・ウォラーが書いた「マディソングンの橋」を久しぶりに読み返しています。

 

現在、超多忙なため、時間がほとんどとれないので、多忙という名の悪魔の目を盗んでは、少しずつ読み進んでいるところです。

 

かなり以前に読んだ時、この評価の分かれる小説を、私は小説としては味わっていませんでした。小説というより、詩として楽しんだ記憶があります。

 

もっと正確に言うなら、ロバート・キンケイドとフランチェスカ・ジョンソンという詩魂をもった二人の「肌ざわり」を味わっていたのです。

 

中年のカメラマンと農婦の「たった4日間の恋」という設定も良いのですが、孤独な2つの魂が出逢うことにより、恋という詩の世界が花のように開いてゆく、奇跡のような時間の流れに、陶酔しました。

 

孤独な詩人、ロバート・キンケイドの言葉を少しだけ拾ってみます。彼は自分が書いた言葉を壁に貼っていたそうです。

 

あまりにも火に近すぎる。

 

火の近くにいる自分というよりも、ほとんど火そものである自分のことを語っているように感じます。

 

そういう人間は現代社会においては孤独にならざるをえない、その嘆きの気持ちが「あまりにも」という表現になったのでしょう。

 

人間になるまえ、わたしは一本の矢だった――はるか昔のことだけど。

 

この一行の言葉の連なりを読んだ時、ハッとしたと同時に、泣き出したい気持ちになりました。私自身、今年の目標に「一本の矢であること」を掲げています。

 

その時は「マディソン郡の橋」のことは頭になかったのです。

 

しかし、今になって思うと「一本の矢であること」という言葉は、無意識化で長く私自身を支配してきたのではないかという気がしてくるのです。

 

ひょっとすると、私自身も、かつて「一本の矢」であった、そして今、再び「一本の矢」に化身しようとしているのかもしれません。

 

次回は、もう一人の孤独な魂である、フランチェスカ・ジョンソンについて、書いてみたいと思います。