原民喜の小説「夏の花」を新潮文庫で読みました。
最初にまず記しておかなければいけないのは、裏表紙の紹介文についてです。
「現代日本文学史上もっとも美しい散文」とありますが、極めて誤解を生みやすいというか、明らかに間違いです。
「現代日本文学史上もっとも美しい散文」とは何を根拠に言っているのか。
巻末の大江健三郎の解説文は、思い入れが激しすぎるのか、大げさな表現、過剰な記述が多く、一種の「悪文」となっています。
若い人たちに向かって書いたとご本人は言っていますが、悪影響もあるのではと、危惧している次第です。
解説文の中でも、大江健三郎は原民喜を「現代日本文学のもっとも美しい散文家のひとり」と評していますが、あまりに過大にして偏った評価だと言わざるを得ません。
「夏の花」を読めばわかりますが、決して「美しい散文」で書かれてはいません。美意識の範囲を極限まで広げても、決して美しい文体でもなく、文章でもなく、一部の描写、記述に美しい表現があるわけでもないのです。
美しい抒情的な表現をすべて排除して、なおかつ美しい作品というものはありますが、「夏の花」はそういう小説でも断じてありません。
原爆の過酷さと悲惨さ題と、綺麗な「夏の花」というタイトルとのコントラストを、感傷的かつ安易に「美しい」と評してしまいたくなる気持ちはわかります。
でもしかし、「現代日本文学史上もっとも美しい散文」と形容してしまうのは、「夏の花」の価値を正当に評価するという点において、著しく逸脱すると私は断言いたします。
安易に「日本で最も美しい文体」だという先入観を持って、読むと、ほぼ全員が裏切られることでしょう。
若い人たちにも、読み間違えてほしくはないので、「美しい」なというという形容詞は、削除していただきたい。
美しい文体で書かれているのは、岩波文庫で書かれている「原民喜全詩集」の方です。
小説「夏の花」やその他の小説は、意図的に「美しい表現」を避けて書かれていることを忘れてはなりません。
被爆を体験した作家がその体験を小説にした点において、貴重であることは間違いありません。
さまざまな日本文学を読んできた私としては、記録文学として特に優れているわけでもなく、短編小説として情景描写・心理描写・抒情性・審美性などにおいて文学的に極めて優れているとは言い難い。
私としては「夏の花」など、被爆体験小説群を、「聖なる凡作」という言葉で賞讃したいのです。
「原民喜全詩集」を読みますと、原民喜は類まれな詩精神を持っていることを感じ取ることができます。
しかし、原民喜は詩においても、小説においても、自らの才能を完全には開花し得なかったのではないでしょうか。
その原因は定かではありません。被爆体験が強烈すぎたために、その体験が原民喜の才能を圧迫したのかもしれません。
類まれな才能を持った原民喜でさえも、被爆体験はあまりに生々しく、その豊かな才能を開花し得なかった、と言った方が適切でしょう。
しかし、才能を開花しきれなかったといえども、原民喜の遺した詩と小説を、私は繰り返し読み続けてゆこうと思っています。
文学作品として、もっと優れた作品、美しい作品はありますが、原民喜の遺した言葉の群れには、作品に本来求められるはずの完成度を超えた「力」があります。
それは、叫びにならない叫び、慟哭にならない慟哭、言葉に置き換えられない祈りが、込められているからではないでしょうか。
その意味で、原民喜の作品は私にとって「凡作」であるはずはなく、作品としての結晶をも拒む、聖なる力が込めれた「言葉の未完成狂想曲」と呼びたいと密かに思っているのです。