アルベール・カミュの代表作「異邦人」を、私は二十歳の時に読んだ。

 

 

あれから気が遠くなるほどの年月が流れた今、この小説のことを振り返ると、やはり……と結論づけたくなる。

 

駄作。これは言い切って良いと思う。

 

主人公のムルソーの人物造形。これは造り過ぎだ。

 

頭で概念的に造り上げた人間であり、こういう人間など、どこにもいない。

 

もちろん、カミュは哲学的エッセイ「シーシュポスの神話」で言いたかったことを、小説家したかったことはわかる。

 

 

だが、そもそも哲学的な思想を、小説にすること自体が愚かである。そういう動機と意図から生み出される小説など、面白いはずがない。観念的であり、どこか無理があり、要するに、頭ででっち上げた人形のような人物にしかなりえないからだ。

 

その意味から、カミュの小説は、ことごとく、つまらない。

 

私は逆説的に話を進めようとしているのだろうか。

 

いいや、大真面目に結論を述べている。

 

小説は小説として書かれるからこそ、意外性を生む。つまり、作者自身も想定できない、神の部分が働き、とてつもない光が生まれることがある。

 

そういう神がかり的なハプニングの可能性を消すのが、哲学の小説化である。

 

別の視点からも、小説「異邦人」を酷評したい。

 

中身がない。人生というものが、こういう形にはなった哲学的概念でできあがっているとしたら、生きる価値はほぼありはしない。

 

「異邦人」も「シーシュポスの神話」も、ともに幼稚でさえある。

 

アルベール・カミュは、優れた文学者であったことは間違いない。しかし、超一流の小説家となるためには、もっとも大事な論理を打ち破る、狂暴な生きることへの欲望と閃きに欠けていたと言わねばなるまい。

 

ドストエフスキーの小説を読めば、それがよくわかる。