アメリカの名匠であるウィリアム・ワイラー監督の映画「ミニヴァー夫人」を鑑賞した。
感想を書くために、データを集めていたら、この「ミニヴァー夫人」を「戦意高揚映画」とか「プロパガンダ映画」と説明している文章がいくつかあって、実に嘆かわしい。
最初に断言しておくが、「ミニヴァー夫人」は「戦意高揚映画」でも「プロパガンダ映画」でもない。
この「ミニヴァー夫人」は、1942年に制作されており、第二次世界大戦の真っ最中である。
第二次世界大戦は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、オランダ、フランス、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争。
戦時中に作られた戦争映画には、確かに国威発揚の狙いで制作された映画は多数ある。
しかし、「ミニヴァー夫人」は戦時下という厳しい制約の中で、見事に描出されたヒューマンドラマである。
戦意高揚映画というより、反戦映画という性質の方が強いが、やはり、人間ドラマと呼ぶできだろう。
戦争の悲惨さをリアルに描くのではなく、心温まるホームドラマ的に(いわゆる「ワイラー節」)に仕上げている。
途中、ドイツ兵が登場するが、ドイツ人を悪者として描いてはいない。
戦争の狂気を描いていると見れば、作品としての大きな傷にはならない。
間違ったレッテル貼りをしてしまったために、なかなか、作品の本質について語れないでいる。
ついでと言うのもおかしいが、戦争映画には実に多様なバリエーションがあり、鑑賞の方法を心得ておかないと、とんでもない評価違いを起こしかねない。
例えば、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」は戦時下の作品、新藤兼人監督の「原爆の子」は戦後の作品であるが、いずれも戦争映画であり、人間ドラマでもある。
いずれも、芸術性の高い秀作である。
また、小林正樹監督の「人間の條件」、山本薩夫監督の「戦争と人間」は、リアリティを重んじているため、歴史ドキュメントという性格が強い。
他には、戦闘シーンが多く出てくるスペクタクル(アクション)映画もある。
こうした映画には、国威発揚映画もあれば、英雄を描くエンターテインメント映画もある。
戦争映画にも様々あり、監督の意図を察して、その意図に則して鑑賞すべきである。
繰り返すが、「ミニヴァー夫人」は「戦意高揚映画」ではなく、人間ドラマであり、ホームドラマなのだ。
確かに、人間の描き方が、戦後に制作された「我等の生涯の最良の年」よりは、切り込みは浅い。
人間造形もやや類型的である。
しかし、ワイラー監督ならではの映像の美しさ、人間たちへの温かい眼差しを感じることができ、充分に楽しめる。
戦時下に作れた「ある家庭の話」「ふつうの人たちの暮らし」を、上品な娯楽作品として昇華させた監督の手腕を讃えたい。
主な出演者は、 グリア・ガースン、ウォルター・ピジョン、テレサ・ライトなど。
グリア・ガースンの存在感、演技力、華のある美しさは素晴らしい。
テレサ・ライトは、薄幸な娘を好演。
ウォルター・ピジョンは、人の好い父親という「はまり役」をキッチリ演じていた。