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茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」

茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩をご紹介します。

 

自分の感受性くらい

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

自分自身を咤激励する、こういう姿勢の詩は貴重だ。

 

日本の近代詩には、萩原朔太郎、中原中也など、自虐姿勢の優れた詩人がいる。

 

しかし、時代がここまで壊れてくると、自虐はポーズにもならず、洒落にもならず、「死」に直結してしまう。もちろん「自死」である。

 

だから、自嘲や自虐は、今は要らない。余裕が生まれた時に、洒落でやればいい。

 

今は、どんなに無様であっても、武骨であっても、自分自身を咤激励すべき時代なのかもしれない。

 

山口誓子の俳句

山口誓子俳句をご紹介します。

 

突き抜けて天上の紺曼珠沙華

 

空の紺、曼殊沙華の赤の対比が素晴らしいのはもちろんですが、何といっても「突き抜けて」の発句が実に効いていますね。

 

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ

 

青春期から最も好きだったのが、この「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」という句です。

 

何かを成し遂げようとすると人は孤独になりますね。真剣に物事を考えても独りぼっちになる。

 

その「さびしさ」を「炭をつぐ」ことで堪えているという感じが、求道的で青年だった私にはたまらなく愛しかったのでしょう。

 

炎天の遠き帆やわがこころの帆

 

若山牧水ふうで良いですね。「こころの帆」という表現が、甘酸っぱくて、若々しくて……こういう軽みのある(ストイック過ぎない)「ふくらみ」のある句も貴重でしょう。

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高浜虚子の俳句

今回は高浜虚子俳句をご紹介します。

 

【動画】(朗読)高浜虚子の俳句「手毬唄かなしきことをうつくしく」

 

手毬唄かなしきことをうつくしく

 

チャップリンは「美しさの中には必ず哀しみがある」という言葉を残している。

 

手毬唄は幼い頃に聴いた記憶がある。私の生まれ育ったまちでは、子供たちは「毬つき」をして遊んでいた。

 

女の子たちの歌声は、冷たい風のように心に沁みた。確かに、その歌は、悲しく、美しかった。

 

「手毬唄かなしきことをうつくしく」と俳句として遺してくれた人が、日本人にいてくれて感謝したい気持ちだ。

 

桐一葉日当たりながら落ちにけり

 

こういう動きのある情景を描出した俳句を私は愛する。

 

「日当たりながら落ちにけり」と描写しているけれども、今の慌ただしい(余計なことに気をとられて勝手に忙しくしている)現代人には、とてもこういう視点は持ちえないのではないだろうか。

 

流れ行く大根の葉の早さかな

 

同じく、動きのある秀句だ。

 

昔は川で大根を洗う習慣があった。それほど川の流れが綺麗だったということ。

 

失われた日本の風景には、美しいものが多すぎる。

 

消えた風景を俳句としてしか確認できないことは、悲しい、情けない気がするのだが、いかがだろうか。

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