八木重吉の「うつくしいもの」という詩をご紹介します。
うつくしいもの
わたしみづからのなかでもいい
わたしの外の せかいでも いい
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であつても かまわない
及びがたくても よい
ただ 在るといふことが 分りさへすれば、
ああ ひさしくも これを追ふにつかれたこころ
最近、このブログでは、金子みすゞと、まど・みちおについて書くことが多いのですが、以前は、八木重吉にはまっていたのです。
100枚くらいの「八木重吉論」まで書いたくらいに、二十代の頃は、どっぷり八木重吉の世界に浸っていたのでした。
今回取り上げています「うつくしいもの」は、「重吉節」と呼びたいくらい、八木重吉らしい詩です。
この詩での主張は「美への希求」のみ。通常ですと、ストレートに自分が美をもとめていると書いても、詩にならないか、読者にとって魅力あるものにはなりません。
しかし、八木重吉が書くと、思わず、身動きできなくなるほどに、詩の世界に没入してしまいます。
なぜか?
八木重吉の「希求」が、人生をかけた訴えだからです。並大抵ではない、訴えの切実さが胸に響き、読者は八木重吉とともに「うつくしいもの」について考え、求めてゆこうと思っていしまうわけです。
八木重吉について何も知らない人が読むと、普通ならば、シンプル過ぎて、もう少し技巧を凝らすべきだと要求するかもしれません。
しかし、般的には稚拙ととらえられかねないほどの単純さこそが、逆に八木重吉の魅力でなのです。
また、技巧などはあってはならない、純粋無垢な世界、それが八木重吉の詩だと言えるでしょう。