Warning: Undefined variable $show_stats in /home/kazahana/kazahanamirai.com/public_html/wp-content/plugins/stats/stats.php on line 1384

遠藤俊夫の詩「一隅を照らす」は、最澄の「山家学生式」へのオマージュ。

今回は遠藤俊夫の「一隅を照らす」という詩をご紹介します。

 

さっそく、引用してみましょう。

 

一隅(いちぐう)を照らす

 

わが身を燃やして

暗きを照らす

ともしびかかげて

一隅(ひとつのすみ)を

照らしてきよめよ

われら手をとり

この世をみちびく

国宝(たから)とならん

 

「一隅を照らす」という言葉は、最澄が書いた『山家学生式(さんげがくしょうしき)』の中の言葉です。

 

この『山家学生式』は、弘仁9~10年(818~819)に順次成立。天台宗(山家)での学生養成制度を勅許されるよう願ったもの。

 

伝教大師が『法華経』を基調とする日本天台宗を開くに当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述し、嵯峨天皇に提出されたとされています。

 

 

では、『山家学生式』の冒頭部分を引用いたします。

 

国の宝とは何物(なにもの)ぞ、

宝とは道心(どうしん)なり。

道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。

故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、

径寸十枚(けいすんじゅうまい)、

是(こ)れ国宝にあらず、

一隅(いちぐう)を照(てら)す、

此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。

古哲(こてつ)また云(い)わく、

能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは国の師なり、

能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、

能く行い能く言うは国の宝なり。

三品(さんぼん)の内(うち)、唯(ただ)言うこと能わず、

行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す。

乃(すなわ)ち道心あるの仏子(ぶっし)、

西には菩薩(ぼさつ)と称し、

東には君子(くんし)と号す。

悪事(あくじ)を己(おのれ)に向(むか)え、

好事(こうじ)を他に与え、

己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、

慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。

 

まず、以下の3行が大事。

 

国の宝とは何物(なにもの)ぞ、

宝とは道心(どうしん)なり。

道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。

 

「道心」とは「 道徳心。仏道を修め仏果を求める心。仏道に帰依する心」のこと。

 

やはり何よりも「心」が大切です。「心」は目に見えませんが、実は目に見えないものこそ大切なのです。現代には視覚表現があふれかえっていますが、視覚でとらえられないものを大事にしたいもの。

 

径寸十枚(けいすんじゅうまい)」という言葉の意味が難しいですよね。

 

以下のエピソードを知れば、理解できます。

 

中国の春秋時代、斉(さい)の威王(いおう)と魏(ぎ)の恵王(けいおう)が偶然狩り場で出会ったときのこと。

 

恵王が威王に次のように語りかけました。

 

「私の国は小国ですが、他国にはない立派な宝物があります。直径一寸ほどの強い光を放つ珠で、車の前後およそ十二乗分までを照らすものが十枚あります。貴国はいかがですか。大国ですので、さぞかし立派な宝をたくさんお持ちでしょう」

 

威王は答えました。

 

「私の国にはそういうものはありません。しかし優れた家来が多くおります。ある者に南城の地を守らせたところ、南隣の楚(そ)は恐れて攻め入ろうとはしません。またある者に高唐の地を守らせたところ、西隣りの趙人は東境の黄河で魚を獲ることをしなくなりました。こうした優れた家来たちが自分の持ち場で一隅を照らし、国を支えてくれています。これが私の宝です」

 

恵王はこれを聞いて大いに恥じ入ったといいます。

 

要約すれば、以下のようになるでしょう。

 

「直径一寸もあるような珠十枚が国宝なのではなく、世の一隅に光を与え照らす者が国宝である」

 

次に「一隅(いちぐう)を照(てら)す、此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと」も、もう少し噛み砕かないと、教訓として生活に活かしにくいかもしれません。

 

「社会の片隅に生きつつ、ひたむきに自分の役割を全うすることで、社会を明るく照らすことができる人こそ、国の宝である」と素直に解釈すれば良いと思います。

 

この最澄の「山家学生式」の一部を、遠藤俊夫は一篇の詩にしたのです。

 

前半部分をもう一度、引用してみましょう。

 

わが身を燃やして
暗きを照らす
ともしびかかげて
一隅(ひとつのすみ)を
照らしてきよめよ

 

後半部分の自ら国宝となろうという意思表明も素晴らしいのですが、前半部分が特に詩作品として類まれな光を放っていますね。

 

ひたむきに生きることを、上記の言葉に結晶させた遠藤俊夫は、立派な修道の人であったのでしょう。

カテゴリー
タグ

読んでおきたい日本の詩集5冊

まずは、ここから始めてほしい5冊の詩集

 

では、以下、日本の名作詩集をセレクションしてみます。たくさん選んでも、詩になじみの薄い人には負担になる(迷う原因になる)かもしれませんので、まずは5冊だけ厳選してみました。

 

日本の名作詩集ベスト5

 

1)まど・みちお詩集

 

 

2)金子みすゞ詩集

 

 

3)坂村真民「花ひらく 心ひらく 道ひらく」

 

 

4)サトウハチロー詩集

 

日本人の心のふるさとが、ここにある。そういうありきたりな言葉しか出てこないほど、サトウハチローの詩は、懐かしく、温かい。「ちいさい秋見つけた」「リンゴの唄」「長崎の鐘」「うれしいひなまつり」などの名作を収める。

 

5)高村光太郎詩集

 

無数の詩を読んできた私にとって、詩集を5冊に絞ることなど容易ではない、と思われた。

 

しかし、案外、簡単だった、あっけないほど。

 

その理由は、詩を芸術作品として味わいましょう、という意図で選んでいないからだ。

 

青春期から愛読してきた詩人、八木重吉、中原中也、立原道造、宮沢賢治などを入れなかった理由は私には明確に説明できる。

 

八木重吉には優れた詩篇が比較的多い。しかし、詩集として見た時、疑問符がつく。駄作も多く、感性が繊弱すぎて、現代という困難な時代を生き抜こうとする人たちが、入門書として読むには、リスクが小さくないと感じた。

 

中原中也はおそらくは、日本近代詩人の中で、もっとも優れた詩をたくさん書いた詩人である。中原中也詩集には駄作がほとんどない。しかし、詩世界は暗く虚無の闇に閉ざされており、これから詩を読もうという人、詩に触れることで希望ある未来をつかもうとする人たちには過負担になると感じた。

 

立原道造と宮沢賢治には、傑作詩があるが数は極めて少ないので、詩集として紹介する必要はないと感じた。

 

その他、入れようか迷った詩人としては、石川啄木、若山牧水、三好達治などがいる。

 

ベスト5が、ベスト10、ベスト20になれば、今回もれた詩人の詩集は、入ることになるだるだろう。

市川雷蔵は映画「大殺陣 雄呂血」で、211人を斬りまくった伝説シーンの意味

最近、私は強烈な引き寄せが起きていて、精神に劇的な変容が起きている。

 

今回見た映画「大殺陣 雄呂血」も、運命的な出逢い以外の何ものでもない。

 

「大殺陣 雄呂血おおたておろち」は1966年に公開された日本映画。監督は田中徳三

 

映画「大殺人 雄呂血」はこちらで視聴可能です

 

主演は市川雷蔵。共演は、八千草薫藤村志保。市川雷蔵の全身全霊の演技は賞賛に値する。

 

それよりも何よりも、この「大殺陣 雄呂血」のテーマが素晴らしい。

 

そのテーマは「理不尽な運命に抗した武士が起こした奇跡」である。

 

主人公の侍が、女郎に身を落としたかつての婚約者に、こう叫ぶ。

 

負けてはならん、運命(さだめ)に圧し潰されてはなりませんぞ……俺はもう死んだんだ。生きろ、生きるんだ。奈美江、奈美江、奈美江……

 

予測を裏切ったエンディングは圧巻。

 

この結末によって「大殺陣 雄呂血」は、単なる時代活劇ではなく、心理劇に、そして人間ドラマに昇華されたのである。

 

田中徳三監督は、いわゆる芸術系ではなく、娯楽時代劇を得意としてる人だ。

 

代表作は、悪名シリーズ、眠狂四郎シリーズ、忍びの者シリーズ、兵隊やくざシリーズなどである。

 

しかし、この「大殺陣 雄呂血」は、娯楽時代劇にありがちなパターンを打ち破っている。

 

クライマックスの大殺人では、市川雷蔵は200人以上(211人を斬っているとの説あり)もの敵を斬って斬って斬りまくった。

 

雄呂血

 

この規模の立ち回りは、世界最大だろうけれど、この「大殺陣 雄呂血」の本当の凄さは、無慈悲な運命を打ち破るための途方もない闘いとして、大殺人を描いたことにある。

 

その意味で、この「大殺陣 雄呂血」は、チャンバラ活劇ではなく、シリアスな人間ドラマであり、もはや時代劇でさえなく、現代劇なのだ。

 

どうして、このような大傑作が生まれたのか。制作スタッフの企画意図を超越した神がかり的な力が働いたのだと思う。

 

ニーチェは「運命愛」という言葉を使ったが、人間には無慈悲な運命を闘争によって打ち倒す力はあるのだろうか。

 

それとも、勝ち負けに関係なく、過酷な定めに対し、戦いぬくことを、運命を愛すること、即ち「運命愛」と呼ぶべきなのか。