最近、私は強烈な引き寄せが起きていて、精神に劇的な変容が起きている。
今回見た映画「大殺陣 雄呂血」も、運命的な出逢い以外の何ものでもない。
「大殺陣 雄呂血」は1966年に公開された日本映画。監督は田中徳三。
主演は市川雷蔵。共演は、八千草薫、藤村志保。市川雷蔵の全身全霊の演技は賞賛に値する。
それよりも何よりも、この「大殺陣 雄呂血」のテーマが素晴らしい。
そのテーマは「理不尽な運命に抗した武士が起こした奇跡」である。
主人公の侍が、女郎に身を落としたかつての婚約者に、こう叫ぶ。
「負けてはならん、運命(さだめ)に圧し潰されてはなりませんぞ……俺はもう死んだんだ。生きろ、生きるんだ。奈美江、奈美江、奈美江……」
予測を裏切ったエンディングは圧巻。
この結末によって「大殺陣 雄呂血」は、単なる時代活劇ではなく、心理劇に、そして人間ドラマに昇華されたのである。
田中徳三監督は、いわゆる芸術系ではなく、娯楽時代劇を得意としてる人だ。
代表作は、悪名シリーズ、眠狂四郎シリーズ、忍びの者シリーズ、兵隊やくざシリーズなどである。
しかし、この「大殺陣 雄呂血」は、娯楽時代劇にありがちなパターンを打ち破っている。
クライマックスの大殺人では、市川雷蔵は200人以上(211人を斬っているとの説あり)もの敵を斬って斬って斬りまくった。
この規模の立ち回りは、世界最大だろうけれど、この「大殺陣 雄呂血」の本当の凄さは、無慈悲な運命を打ち破るための途方もない闘いとして、大殺人を描いたことにある。
その意味で、この「大殺陣 雄呂血」は、チャンバラ活劇ではなく、シリアスな人間ドラマであり、もはや時代劇でさえなく、現代劇なのだ。
どうして、このような大傑作が生まれたのか。制作スタッフの企画意図を超越した神がかり的な力が働いたのだと思う。
ニーチェは「運命愛」という言葉を使ったが、人間には無慈悲な運命を闘争によって打ち倒す力はあるのだろうか。
それとも、勝ち負けに関係なく、過酷な定めと戦いぬくことを、運命を愛すること、即ち「運命愛」と呼ぶべきなのか。