詩を読んでいる(詩心を働かせることが習慣になる)と、様々なことが学べ、様々な能力が養われます。
その一つに「人の哀しみがわかるようになる」ことがあるのです。
「人の哀しみがわかる」は言い換えますと「人の哀しみを自分のこととして感じられるようになる」とも言えます。
また、「人は哀しみを知ってはじめて、想像力という翼を広げられるようになる」と言い換えることができるでしょう。
今の政治家で、人間の哀しみを理解している政治家が何人いるか?
国民を幸せをかなえる政治をしようと思えるのは、人の哀しみを知っている人だけではないでしょうか。
想像力の貧困な人間に政治をまかせたら、とんでもないことになる。
人々の哀しみを共有できない政治家は、利権に走ることになる。
以上の意味から、政治家は詩を読んでいなければならないし、詩人でなければいけません。
詩人と政治家は、結びつきにくいのですが、以上のように考えると、政治家は詩人でなければいけないことがご理解いただけるでしょう。
詩を読むと人の哀しみがわかるようになるのには理由があります。
詩人は自分自身のあるいは人間が本来もっている「哀しみ」を泉として詩作するからです。
詩創作の源泉は、例外なく「哀しみ」です。
「美しさの中には必ず哀しみがある」と、チャップリンが言いました。
また、ロダンは「人は哀しみを捨てるべきではない、哀しみを失うと人は無訓練になってしまう」と述べています。
誰も哀しみたくはありません。歓びにあふれ、癒しの中に安寧を得たいと願っています。
ですが、哀しみを知らぬ者は、自分だけが裕福になろうとして、多くの人を哀しませることになりがちです。
哀しみを理解できない者は歴史がわかりません。なぜなら、歴史は想像力を働かせなければ理解できないから。
以上の意味から、政治家だけでなく、私たち全員が詩人であるべきだと言えます。