岩岡千景「セーラー服の歌人 鳥居 人った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」を一気に読んだ。
重い内容のはずなのに、なぜか、速読できしてしまう、ここにこの本の媚薬、いや、中毒性を感じる。
天童荒太の「永遠の仔」という小説の雰囲気と似てもいた。鳥居の歌集にも同じ空気感があった。
読み終えた時の興奮状態が冷めた今、鳥居という歌人は、できるだけそっとしておいてあげてほしい、という思いが急に湧いてきている。
演劇に例えるなら、「セーラー服の歌人」という大役を演じ切って、クタクタになっているはずである。
鳥居の歌集は、泥臭いほど純粋な刃物だ。逆境から這い上がるために犯罪に手を染める、韓国ドラマの愛に飢えたヒロインの眼光に酷似する時もある。
岩岡千景氏の伝記も力作だ。ゴーストライターが書いた傑作自伝といわれる、山口百恵の「蒼い時」を想い出した。
ネットでは、多くの捏造が入っているとの書き込みがあるが、そういう批難が出るのも当然だろう。
出版社の鳥居の売り出し方は、揶揄されても仕方がないくらい、あざといものだ。
この商魂たくましいセールスプロモーションが、鳥居にずっとつきまとわなければいいが……。
セーラー服を脱ぐことで、一度ついたラベルを消せるとは思いにくい。
しかし、しかし、である。鳥居の短歌の中には、怪しく光るものがあることは確かである。天使と悪魔が同居する少女を演じる、天才子役に似た輝きだ。
鳥居という表現者を語る時、いろんな人格を演じられる天性の役者を想起しないと、鳥居の歌の真意をつかめないかもしれない。
その類まれな演技力は、母親から授かったものであり、生きぬくための芸でもあるのだろう。
プロジェクトは終了したのだし、岩岡千景の仕事は完成しており、もうやるべきことはない。
鳥居の20年後「あの人は今?」的な企画はやめてほしい。
私たちにできるのは、鳥居を休ませてやることぐらいしかない。鳥居を休ませるとは、彼女にいかなる演技をも強いないということ。
疲れていたら、微笑む必要はない、ぐったりと寝込んでいいのだよと、私はそっと告げたい気持ちである。
たくさん感想が書ける気もするのだが、なぜか、今はまるで書けない。
鳥居を独りに帰してやろうではないか。もう、救いの手は求めていないだろう。
極端な客体化から、ご自分を解放してあげてほしい。
鳥居によって、文芸復興の芽もあるかと、一瞬期待したが、そんな期待をかけたら、鳥居に過負担になるだろうから、その期待は取り下げておく。
私は私で、旅に出たいと思う。私に帰る旅に。