今の日本では、スマートフォン以外、何も爆発的には売れていないという話を東京で聴いてきました。

スマートフォン、通称「スマホ」を持っていない人の数が減っていると感じる昨今ですが、さて、このスマホって、本当に私たちの生活に必要なのでしょうか。

スマホというものはアイデア商品であって、本来、人間にどうしても必要なものではないというのが私の考え方です。

もちろん、便利な面はたくさんあり、インターネットを活用する仕事をしているので、スマートフォンは使っています。しかし、スマホの普及によって、失われてゆくものがあり、それが非常に大事なものであるので、どうしても警鐘を鳴らさずにはいられません。

スマホの危険性で大きいのは、一般人の発信力が落ちることです。スマホは情報を受け取ることは得意ですが、情報を発信するツールとしては向いていません。発信する力においては、ノートパソコンに遠く及びません。

マスコミの記者が情報配信のメインツールとして、スマホやタブレットを使っているという話は聞いたことがありません。

現状として、ノートパソコンは持っていないけれども、スマホは持っているという人が増える傾向が強いのですが、これが怖い。

なぜなら、情報を受け取る人が増えてゆく一方で、ブログやメルマガなどで、自ら情報発信してゆこうという人が育ちにくい環境になってしまうからです。

2005年から2006年にかけて、空前のブログブームがありました。一億総発信者時代の到来を想わせました。誰でも、自分の意見を自分のメディアで発信できるようになったのです。

ただ、あの頃、ブロガーの数は300万人くらいと言われたのですが、今もこの数が増えていないことが気になります。

そして、時代がスマホに傾けば、ますます一般人が自ら進んで情報発信してゆこうという傾向は弱まってゆくのではという心配が出てくるわけです。

もう一つの危険性は、創造性の衰弱です。少しでも空いた時間があればスマホをいじる、そういう習慣ほど危ないものはないと私は思っています。

創造的なアイデアはどういうシステムで出てきやすいかというと、様々な情報をいっぱい頭に詰め込んで、それらの情報を組み替えることによって新しい何かが生み出されるということではない、それを確認しておく必要があります。

大切なのは、情報をたくさんインプットすることでも、情報を組み替えることでもなく、組織的(システマティック)なものからはずれた遊び心を活性化することなのです。

スマホをいじっている時は、遊んでいるのではなく、遊ばれているだけなのだと何人の人が気づいているでしょうか。

例えば、空を見上げていて、流れる雲を見つけて、詩を作ったとします。それは、流れる雲という情報が、自分という存在の根っ子(精神の根源)と共振したから、詩を創造できたわけです。

自分自身の存在と何ら関係ないものに遊ばれたり、時間を浪費させらている状態ほど危ないことはありません。

創造的な暮らしを目指すのではあれば、スマホは捨てないまでも、少なくともその存在を警戒すべきでしょう。

さらに、3つ目。それは、何もしない時間の消失です。携帯電話が普及した時もそうでしたが、電車の待ち時間に、多くの人が携帯電話をカチャカチャやっていましたね(苦笑)。今はそれがスマホに変わっただけのこと。

少しだけ突き放した視点から、そうした光景を眺めれば、スマホをみんながみんないじっている状況がどれくらい病的なのかはわかるはずです。

もう少し、自分自身でいられる時間を楽しめて良いはず

ほんとうに「何もしていない時間」は大切であって、これを黄金の時と呼びたいくらい。考えることもせず、ボケーッとしている時ほど、豊かで、幸福な時間はないと思うのです。

まとめてみます。

【スマホの危険性】

1)発信力の弱体化

2)創造性の衰弱

3)何もしない時間の消失

そんなわけで、来年は、スマホとの付き合い方を、自分なりのスタイルで提案してゆきたい思っています。