映画「あに・いもうと」をようやく最後まで見ることができた。

 

最初のシーンで、いつも観る気をなくしてしまうのだ。

 

しかし、京マチ子が登場してからは、映画空間に吸い寄せられてしまった。

 

全体として素晴らしい映画作品になってはいるが、ファーストシーンは失敗ではないだろうか。

 

それはさておき、この映画の最大の魅力は、無垢な魂を持ちながら、奔放な愛に生きるしかない豪深き京マチ子、前向きに自我を失うことなく、自らを成長させようとする、純真清楚な久我美子、この二人の演技の対照的な冴えに他ならない。

 

1953年に公開された映画だが、まだ時代は戦後の復興期、田舎の生活においては古い因習が残っていて、女性は「こうあらねばならない」という、どうしようもない固定概念に縛られていた。

 

新しい時代を生きる全く違うタイプの姉妹(姉の京マチ子と妹の久我美子)を、コントラスト鮮やかに描きだしたところが、成瀬巳喜男監督の手腕である。

 

主要な登場人物は、まるで、ドストエフスキーの小説の登場人物にように、クッキリと性格が描き分けられていた。

 

だから、この映画「あに・いもうと」は、映画というより、文学だと感じたのだと思う。

 

この映画「あに・いもうと」は、1953年(昭和28年)8月19日に公開された日本映画。

 

室生犀星の小説「あにいもうと」の映画化作品である。この小説、未読なので、読んでみたい。

 

ところで、京マチ子と久我美子の姉妹のいる家族の構成だが、頑固一徹な職人気質の父親、古い日本の母親の典型のような優しく温かい母親、気性の荒い、実は妹思いの兄、それと全く性格の違う姉妹がいる5人家族

 

父親役は山本礼三郎が演じた。黒澤明の「酔いどれ天使」での悪役が印象的だが、この映画では、大きく変わろうとする時代が生んだ不幸な古い男性像をきっちりと演じきっている。

 

兄役は稀有な演技は男優として知られる、森雅之。最後まで、妹の京マチ子と和解させない演出が良かった。

 

母親役は浦辺粂子(うらべうめこ)が演じた。典型的な「日本のおかあさん」「日本のおばあちゃん」を演じさせたら、この人にかなる役者はいないのではないだろうか。この映画「あにいもうと」でも、典型的な古い母親像をしっかりこなしていた。

 

この5人家族の描写は秀逸だ。日本の戦後復興期における、家族の描写として極めて優れており、今の時代の家族観と比較すると、いろいろな思いが浮かんでくる。

 

最後に、京マチ子について。実質的な主演は、久我美子だが……。なぜなら、この映画は久我良子の視点で展開されているからだ。

 

で、あまりに、圧倒的な京マチ子を、最後に語りたい。

 

主要な人物をどのように映像に登場させるかは重要だ。京マチ子の登場させ方が凄かった。畳の上に寝ているシーンが、尋常ではない存在感を示しすぎていた。このシーンは、この映画の主題の枠を破ってしまっている。

 

悩ましいまでに美しい。演技は超ど級、規格外なので、この映画作品からも飛び出しているように感じられた。

 

ラスト近く、兄の森雅之との苛烈な喧嘩シーンは、凄まじいとしか言いようがない。

 

女性を男性が殴るシーンは不快だ。今の時代と違って、男が女を殴ることが日常的であった時代だろうけれど、殴るシーンが多すぎる気がした。殴ることを我慢する、そういう心理描写を入れてほしかった。

 

でも、そういうことは、名匠・成瀬巳喜男監督のこと、意図的にやっているに違いないのだが……。

 

京マチ子のような破格かつ特異な存在感を持たない、別の女優でも良いと思う。

 

原節子では無理があるが、「洲崎パラダイス赤信号」で、あばずれ役もこなした新珠美千代はどうだろうか。

 

ともあれ、映画「あに・いもうと」は、映画史上に残る佳作であることは間違いない。