映像が鮮明に浮かぶ文章を書く方法

先日、東京の出版関係の会社に勤める友人と電話で歓談しました。

2人ともライター経験があるのですが、
彼は編集系ライター、
私はコピーライター系です。

で、今回の話題は「名作コピーに学ぶ」。

私たちがライターになりたての頃は、古典的な名作コピーなどは暗記するまで読まされましたし、自分たちでも、しばしばコピー談義、文章論に花を咲かせたものです。

夏から秋にかけて発表された名作コピーで、こういうのがあります。
かなり古いですけど、毎年思い出すのです。

パルコのポスターのキャッチフレーズ。

少女は無口だった。夏の終わりだった。

ビジュアル(写真)は、水着の女性の後姿です。

ひと夏で少女は大人の女性になったのかもしれない。
熱い恋愛に身を焦がし、燃え尽きたかもしれない。

そういった物語性を読者に想像させる、
たいへん情感豊かなコピーでした。

では次に、秋の始まりの名作コピー。

今度も、パルコのポスター。

美しい弾丸を込めて、秋。

ビジュアルは、黒のレザーに身を包んだ外国人女性が、こちらを睨みつけている写真です。

句読点の打ち方が違っていたら、すみません。何しろ、原版が手元にないものですから。

夏の未練はさっぱり捨てて、新しい美に立ち向かってゆく女性の強烈なオーラが、紙面から立ち上がってくるようでした。

なぜ今日は、広告コピーの話なの?って思っていませんか。
そうですね、ご説明しましょう。

どうして、パルコのポスターの例を出したかというと、
実は良いコピーは必ず、良いビジュアルと結びついているのです。

だから、コピーライターは、ある程度、絵も描けなくてはいけません。
私は、実際に会社で、そういう訓練をさせられました。

広告に限らず、これだけ社会がビジュアル化してくると、映像が浮かばない言葉というものは、なかなか理解されない(強い訴求力を持ちえない)のです。

ですから、ブロガーの文章も、映像が鮮明に浮かび上がる方が、よく伝わる確率が高いと言えます。

では、どうしたら、そういう文章が書けるようになるか?

それは、文章を書く時に、映像を意識して書くクセをつけることです。

プロのコピーライターは、サムネイルといって、自分で紙に絵を書いて、そこにコピーを入れる練習を積みます。

日ごろから、映像を意識して、その映像を喚起する文章を、書くように心がけてください。

そんなわけで、今回は、名作コピーの鑑賞、そして、言葉と映像との関係について、触れてみました。どうか、参考にしてください。

確定申告が終わりました。

平成23年度の確定申告を、本日済ませました。というか、郵送で税務署に送ったのです。

 

去年は入退院を繰り返したりしたために、収入は激減しました。そのため、予定納税分が還付されると思うので、申告の苦労も報われる気がします。

 

私は個人事業主で、独り暮らしなので、所得は上げ過ぎると悲惨な目にあいます。そのため、今年はほどよい収入でおさめるために、コントロールするつもり。

 

それと、風花無量塾が終了した時点で、領収書の整理をしたいと考えています。領収書の仕分けだけで、本当に苦労しますので。

 

神レベルの洋楽カバー Nobody's supposed to be here

  • 音楽

久しぶりに洋楽の名曲をご紹介。といっても、カバーなんですが、これが凄いです。

 

韓国のR&Bシンガー、パク・ファヨビ(Hwayobi)が、全身で歌い上げています。

 

Nobody's supposed to be hereは、Deborah Coxの名曲です。

 

聴き比べてみてみますと、韓国人歌手である(当時20歳くらい)ファヨビHwayobi)の歌唱は、カバーのレベルを遥かに超えていることに気づきます。

 

というか、ファヨビの歌い方は、ある意味、暴力的。怖いもの知らずで、才能とか感性とか、天性のものだけで、絶唱しているのですね。

 

それが、私など東洋人の感覚を、激しく震動させてくれて、もう繰り返し聞くしかなくなります。

 

上手さとか、声量とか、そういう問題ではなくて、ファヨビしか表現できない、独自の歌空間をクッキリと描き切ってしまっていることに驚愕するのです。

 

歌詞だとか、英語の発音だとか、そんなことは全く関係なくなってしまう。この「痺れ」「突き貫ける感じ」に、ひたすら浸っていたい。

 

このライブは、まだ幼さが残る顔立ちなので、ファヨビが20歳前後の時のものでしょう。

神という言葉でしか表現できない、不可思議な輝きを浴びることができます。

 

これがそのライブ動画⇒Hwayobi-Nobody's supposed to be here

 

パク・ファヨビは、2000年に19歳でデビューしたのですが、当時の野性的で、物怖じしない歌唱法は、規格外の才気が感じられます。

 

人が歌っているより、刃物が声を発しているという感じ。自分の内側にある「凶暴な何か」に気づくことなく、それを声から必死で放出している。この「危なさ」が、当時のファヨビの最大の魅力でした。

 

しかし、その後は、声帯の手術を受けたり、失恋、過食、うつ病など、試練がつづき、野性の輝きは影をひそめています。

 

角が取れてしまったファヨビですが、今もなお、良い歌手であることには違いありません。

 

神を想起させる鋭利さはなくなりましたが、人間的な包み込むような歌い方が、新しいファヨビ世界を作り上げています。

 

私自身は今現在、超多忙の中にあり、娯楽というとネットで動画を見ることぐらい。そんな中、ファヨビの歌声は、一番の楽しみ。時に触発され、時に勇気づけられます。

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